第ニ章 (長 浜 〜 九頭竜湖) |
||
左手に琵琶湖を望み、右手には伊吹連山を見て列車は快走する。私にとって、北陸本線を敦賀へと向かうこの区間は、一種“ミステリアス”とでも表現したくなるような印象につつまれている。沿線に矢継ぎ早やに展開する光景からは、歴史に塗り込められた人々の思い入れが、重く訴えてくるような気がしてならない。 順を追って見て行こう。まず木之本を過ぎると、列車はグイとカーブする。左旋回する私を置き去りにしてまっすぐ伸びていく道路こそ、“柳ヶ瀬越え”の北陸本線旧線跡である。急勾配にトンネルが掘られているために、登り勾配では走る列車を追いかけるようにして煤煙がまとわりついて離れず、多くの機関士が酸欠で倒れた魔の峠越えであったという。 |
この旧線を見送ると、息をつく間もなく左手に余呉湖が広がる【写真7】。悲劇の戦国武将・柴田勝家と豊臣秀吉との「賤ヶ岳の合戦」の舞台である。車窓から見る賤ヶ岳はすぐ間近にあり、その前景には穏やかで愛らしい余呉湖がたたずむ。この狭い一帯に数千の兵が対峙し、血みどろの合戦を繰り広げたとは、平凡な現代人にはとても想像できないところだ。 お市の方の嘆きを残して余呉トンネルを抜け、高い山肌を巻いて進むと、左手からは堂々たる高架の湖西線が合流してくる。 まともな利用客などなさそうなのに構内がやたらと広い、信号所同然の近江塩津を過ぎて国境の深坂トンネルを抜けると新疋田。ここではあの柳ヶ瀬越えの旧線跡が、再び合流しようと怨念を持って右窓から追いかけてくる。一方では、上下線それぞれを別線とし、あまりにも有名なループ線まで敷設して勾配に挑んだ先人たちの執念が左窓に満ち満ちている。 このように日本の近代鉄道史やら戦国史やらが凝縮された区間であり、片時も目を離すことができずに凝視し続けてへとへとになったころ、ようやくのどかな平地が左手にひらけて列車は速度を落とす。11時55分、北国の玄関口、敦賀に到着する【写真8】。 うまい具合にここで10分停車。お昼時とあって、売店には乗客が三々五々集まってくる。カニやサバ、マスなど海の幸を使った駅弁が多く、あれこれと目移りするうちに他のお客がどんどんと買っていく。結局パッケージの鮮やかさにひかれて「鯛鮨」【写真9】に決めたが、酢でしめても弾力を失わない鯛の身がおいしかった。 パッケージの能書きによれば、昭和初期からここ敦賀駅の名物であったという。その味と歴史に敬意を表して、製造元「塩荘」のサイトを紹介させていただく(http://www.shioso.co.jp)。 ここから席を移し、フルムーンらしき壮年夫婦が相客になる。この夫婦を含めて車内のあちこちでは一斉に駅弁が開かれ、ローカル列車ではありながら団体観光列車のようなムードになる。これも元特急車両のボックスシートのおかげだろう。 今庄、鯖江など特急の車窓からはなじみのある区間に入るが、ひと駅ごとに停まって行くので印象がまったく違う。それぞれの駅前の風景などもじっくり眺めて、いろいろ見逃していたものがあったなと感心するうちに時間がたち、12時53分越前花堂に着いた【写真10】。福井まで行って越美北線に乗りかえる予定だったが、思い立ってここで降りる。 トイレを借りようといったん改札を出る。無人駅だが駅前は広く、車もたくさん停まっている。正面からずどんと一本伸びる駅前通りのかなたには別の踏切があって、走り過ぎる福井鉄道福武線の車両の陰が見える。 再び改札をくぐって跨線橋から見渡すと、福井方500mほど向こうが照明灯の立ち並んだヤードになっており、そこから北陸本線と越美北線が分岐している。二股になった線路にはさまれた、三角州のような位置に越前花堂の駅がある。あのヤードが南福井駅(貨物駅)に違いない。 宮脇俊三さんの「時刻表2万キロ」の第一章にこの駅のことが出てきて、越美北線の起点は福井でも越前花堂でもなく、この南福井だということが書かれている。だから私が越前花堂から越美北線に乗ってしまうと、「乗りつぶし」的には南福井〜越前花堂間が未乗区間として残ることになるが、別に記録を狙っているわけではないからそれはどうでも良い。それに、どうせ復路では福井まで戻ってから北陸本線に乗り継ぐのだから、“未乗区間”もその時に通ることになる(と、その時はそういうつもりだったのだが)。 |
【写真7】 余呉湖 【写真8】 敦賀にて 【写真9】 塩荘の鯛鮨 【写真10】 越前花堂駅 |
■第4ランナー 越前花堂(13時12分発) 〜 九頭竜湖(14時31分着) 普通 727D(キハ120) |