青春18残り福・九頭竜の旅(第2回)(03/02/11)


第ニ章 (長 浜 〜 九頭竜湖)

 左手に琵琶湖を望み、右手には伊吹連山を見て列車は快走する。私にとって、北陸本線を敦賀へと向かうこの区間は、一種“ミステリアス”とでも表現したくなるような印象につつまれている。沿線に矢継ぎ早やに展開する光景からは、歴史に塗り込められた人々の思い入れが、重く訴えてくるような気がしてならない。

 順を追って見て行こう。まず木之本を過ぎると、列車はグイとカーブする。左旋回する私を置き去りにしてまっすぐ伸びていく道路こそ、“柳ヶ瀬越え”の北陸本線旧線跡である。急勾配にトンネルが掘られているために、登り勾配では走る列車を追いかけるようにして煤煙がまとわりついて離れず、多くの機関士が酸欠で倒れた魔の峠越えであったという。
 この旧線を見送ると、息をつく間もなく左手に余呉湖が広がる【写真7】。悲劇の戦国武将・柴田勝家と豊臣秀吉との「賤ヶ岳の合戦」の舞台である。車窓から見る賤ヶ岳はすぐ間近にあり、その前景には穏やかで愛らしい余呉湖がたたずむ。この狭い一帯に数千の兵が対峙し、血みどろの合戦を繰り広げたとは、平凡な現代人にはとても想像できないところだ。

 お市の方の嘆きを残して余呉トンネルを抜け、高い山肌を巻いて進むと、左手からは堂々たる高架の湖西線が合流してくる。
 まともな利用客などなさそうなのに構内がやたらと広い、信号所同然の近江塩津を過ぎて国境の深坂トンネルを抜けると新疋田。ここではあの柳ヶ瀬越えの旧線跡が、再び合流しようと怨念を持って右窓から追いかけてくる。一方では、上下線それぞれを別線とし、あまりにも有名なループ線まで敷設して勾配に挑んだ先人たちの執念が左窓に満ち満ちている。


 このように日本の近代鉄道史やら戦国史やらが凝縮された区間であり、片時も目を離すことができずに凝視し続けてへとへとになったころ、ようやくのどかな平地が左手にひらけて列車は速度を落とす。11時55分、北国の玄関口、敦賀に到着する【写真8】
 うまい具合にここで10分停車。お昼時とあって、売店には乗客が三々五々集まってくる。カニやサバ、マスなど海の幸を使った駅弁が多く、あれこれと目移りするうちに他のお客がどんどんと買っていく。結局パッケージの鮮やかさにひかれて「鯛鮨」【写真9】に決めたが、酢でしめても弾力を失わない鯛の身がおいしかった。
 パッケージの能書きによれば、昭和初期からここ敦賀駅の名物であったという。その味と歴史に敬意を表して、製造元「塩荘」のサイトを紹介させていただく(http://www.shioso.co.jp)。
 ここから席を移し、フルムーンらしき壮年夫婦が相客になる。この夫婦を含めて車内のあちこちでは一斉に駅弁が開かれ、ローカル列車ではありながら団体観光列車のようなムードになる。これも元特急車両のボックスシートのおかげだろう。

 今庄、鯖江など特急の車窓からはなじみのある区間に入るが、ひと駅ごとに停まって行くので印象がまったく違う。それぞれの駅前の風景などもじっくり眺めて、いろいろ見逃していたものがあったなと感心するうちに時間がたち、12時53分越前花堂に着いた【写真10】。福井まで行って越美北線に乗りかえる予定だったが、思い立ってここで降りる。

 トイレを借りようといったん改札を出る。無人駅だが駅前は広く、車もたくさん停まっている。正面からずどんと一本伸びる駅前通りのかなたには別の踏切があって、走り過ぎる福井鉄道福武線の車両の陰が見える。
 再び改札をくぐって跨線橋から見渡すと、福井方500mほど向こうが照明灯の立ち並んだヤードになっており、そこから北陸本線と越美北線が分岐している。二股になった線路にはさまれた、三角州のような位置に越前花堂の駅がある。あのヤードが南福井駅(貨物駅)に違いない。

 宮脇俊三さんの「時刻表2万キロ」の第一章にこの駅のことが出てきて、越美北線の起点は福井でも越前花堂でもなく、この南福井だということが書かれている。だから私が越前花堂から越美北線に乗ってしまうと、「乗りつぶし」的には南福井〜越前花堂間が未乗区間として残ることになるが、別に記録を狙っているわけではないからそれはどうでも良い。それに、どうせ復路では福井まで戻ってから北陸本線に乗り継ぐのだから、“未乗区間”もその時に通ることになる(と、その時はそういうつもりだったのだが)。
余呉湖
 【写真7】 余呉湖

敦賀駅ホームにて
 【写真8】 敦賀にて
 
塩荘の鯛鮨
 【写真9】 塩荘の鯛鮨

越前花堂駅
 【写真10】 越前花堂駅




  ■第4ランナー 越前花堂(13時12分発) 〜 九頭竜湖(14時31分着)  普通 727D(キハ120)


越美北線ホーム
 【写真11】
 越美北線ホーム
 (クリックすると写真集)
 北陸本線と越美北線。2つのホームは30mほど離れているので飛び地のようであり、フェンスで外界と区切られた細い通路で結ばれている。周囲は産業廃棄物置き場や工場に囲まれて、細い越美北線のホームはその中に飲みこまれたようになっている。
 北から東へとカーブを描く線路もその先は工場群の影へと消えていて、貨物の引込み線のようだ。簡素な片面ホーム【写真11】には、それでも番小屋のような待合室があって、ベンチに敷かれた手縫いの座布団が余計に侘しさをつのらせる。
 本線の特急が轟音をたてて走り抜けていく傍らで、このホームは置き忘れられたような感があるが、しかしそれは旅人の勝手な妄想なのかも知れない。定刻にやってきた軽快気動車に足を踏み入れてみれば、サラリーマン、おばさん、そしてローカル線の友・女子高生などなどで席は埋まっており、生活感に満ちた車内はこの鉄道が立派に生きていることを教えてくれる。
 

 北陸に来ての楽しみのひとつは、独特な家々の作りを見ることにある。新興住宅地はともかく、代々その土地に居を構えるような旧家では、必ず家屋の背後に巨木を背負い、風雪から守るような配置になっている【写真12】
 これは福井に限らず富山など北陸一帯で見ることができ、またこれを見るとああ北陸に来たな、となつかしさを感じさせる。

 車窓にそんな風景を探しながら福井平野を一直線に進み【写真13】、やがて眼前に立ちふさがった山々に突き当たると、いよいよ谷あいを縫うローカル色の強い区間となる。戦国武将の朝倉氏が本拠を置いた一乗谷を過ぎ、足羽川に沿ってさかのぼるに連れて残雪が増えていく。
 先頭の乗降口脇にもたれて前を見る。背中にごつごつと当たる感触は、半自動ドアの開閉ボタンのボックスだ。
 田畑の中の築堤を直進し、川を渡り、谷あいに突っ込み、林をかすめる。カーブをひとつ曲がるごとに道床を覆う雪が増え、やがて停留所のような駅が現れて、ひと駅ごとにぽつり、ぽつりと降りる。この繰り返しで心地よい緊張と退屈の入り混じった時間が流れ、14時ちょうど、越前大野に着く【写真14】
 大野藩の城下町として歴史のある街で、乗客の半数以上もここで降りる。女子高生もほとんど降りた。一見OLのような可愛い学生が残った。
木々に囲まれた家屋
【写真12】
 
直線区間
【写真13】
越前大野へ進入
【写真14】


 ひとしきり客の流れが落ち着いたところで入れ違いに助役が車内へ顔を出したが、手にしているのはなんとなつかしい「タブレット」であった【写真15】。「はい、通票サンカク!」「はい三角ゥ。」運転士と声を掛け合ってタブレットを渡す。 
 なぜここでタブレットが生き残っているのかはわからないが、ひとつ確かなことは、ここ越前大野を過ぎると、あとは終点・九頭竜湖に至るまで列車の交換が皆無だ、ということである。行き違いがないということは、1本の列車しかその区間には入っていないことになる。すなわち、越前大野〜九頭竜湖間21.1kmが、事実上単一の閉塞区間となっているのだ。

 改札口に立った助役が、トランシーバで運転士に発車合図を送る。ここから先、九頭竜湖までは1日に5往復しかないので、乗り遅れ客の無いように気を遣うことだろう。
 発車してしばらくは盆地の中を行く。後方を振り返るとひときわ目立つ小山があって、その頂に越前大野城がある。
 乗客は10人そこそことなったが、これは越美北線にとって少ないと言っていいのかどうか。明らかな鉄道マニアも数人いるからまともな客は片手ほどではあるが。
 客が少ないから車内吊り広告のスポンサーがつかないのか、広告の代わりに地元の小学生が描いた鉄道の絵が揺れている【写真16】。地元客はボックスシートに収まり、旅行者はロングシートに腰掛けて、気ままに車内を移動しては気に入った風景にカメラを向けている。

 いよいよ山中に分け入って、昭和47年まで終点だった勝原に着くが、どうということはない片面ホームで何か拍子抜けがする。ただし目前の新線区間に口を空けるトンネルはポータルのコンクリートもまだ新しく見え、構内の曲線半径も大きくなって、明らかに設計思想が異なっていることがわかる【写真17】
 長い荒島トンネルを抜けると越前下山。ホーム脇の田畑も築堤も一面真っ白で、そこに点々と小動物の足跡がついている。あの足跡をたどって行けば、ウサギかなにかに会えるのかなと思う。都会なら野良犬だろうが。
 ふたたびトンネルの連続となって14時31分、終点・九頭竜湖に到着した。ここまで乗った乗客は、大人7人、子供3人。うち私を含む大人4人は旅行者、すなわち鉄道マニアなのであった。





 
トレインバナー
タブレット交換
 【写真15】
 (九頭竜湖から折り返しで到着時に
  撮影)

越美北線車内
【写真16】
 
勝原駅ホームから先を見る【写真17】

 (C)Takashi Kishi 2003
  Train Banner  (C) H.Kuma

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