五能線の旅(第1章) ■ プロローグ  97年の暮れも押し詰まったある日の夕方、大阪駅からほど近い得意先を訪れた後で、 私はその10番線ホームに立ってみた。  今年も暖冬で、時刻は午後5時半を回ったというのに、コートなしでも平気なほどだ。しかし、函館行の寝台特急「日本海1号」の発車を待つホームには人影がなく、その光景は寒々としている。旗を持った助役と、暇そうにトロ箱に腰掛けている駅弁売り、そして私だけだ。  隣の東海道線ホームは鈴なりの退勤客で黒々としているが、それと比べると見ていてあきれるほどの好対照で、都会の真ん中の大ターミナルとはいえ、このホームだけはすでにローカル線の空気を漂わせている。  あと数日すれば、私は再びここに立つ。書類で重たくなった鞄を手にしたスーツ姿ではなく、リュックサック1つの身軽な旅行者として、五能線を訪れるために「日本海1号」で旅立つことになっている。  目の前には8号車が停まっているが、その14番下段のB寝台が、その時私を待ってくれているはずだ。「日本海」と共通の車両運用だった「つるぎ」が消えた今、単純な折り返し運用だと仮定して、残り日数から勘定すれば、 私の乗る車両は今日の編成とは違っているはずだが、念の為車両番号をメモしておく。  やがて定刻の5時47分に、「滑り出す」という表現がぴったりの見事な運転技術に操られながら、モノクラス12両、電源車を含めると13両の長い編成はホームを離れて 行った。1両に数名ずつという、帰省シーズンとは信じられないわずかな乗客だったが、その中にはもうひとりの私がいて、ホームに残った私に向けて、窓から手を振ったような気がした。  赤いテールランプが阪急のターミナルビルの影に消えたのを見届けた私は、何かを為し終えたような気がして、次の得意先へ向かった。 ■ 第1章  12月1日(1997年)付で、入社以来14年を過ごした本社を離れて、販売会社の支店に、営業課長として出向することになった。突然の内示から着任までわずか1週間、それまでかかえていた仕事のその後の段取りと、後任者への引き継ぎで、目の回るような思いをしたが、その慌ただしさをそのまま持ち込む形で、新任地での数週間が過ぎ、暮れを迎えようとしていた。  「今年はいろいろ大変だったから、正月休みはどこかひとりで旅行でもしたら」と、妻が出来過ぎたことを言う。有り難いお言葉ではあるのだが、今となっては、安くはない金を使って、家族をほったらかしにして、正月早々ひとりで旅行などする気になれないし、と思って本気にはしていなかった。  しかし、ある日会社帰りの電車で宮脇俊三氏の本を読んでいて、五能線を訪れたくだりにきた瞬間、「ここに行くぞ」と、突然その気になってしまった。五能線が私を呼びよせた、というほどたいそうなことでもないが、なぜ急に「その気」になったのかは、実は自分でもよくわからない。列車の曇りガラスを通して眺める灰色の冬の海、というシーンが目に浮かんだのかも知れない。  人事異動以降のバタバタにひと区切りをつけて、冬の日本海をローカル線の車窓から眺めながら自分の気持ちに整理をつけたい、という一応の大義名分はある。しかし、それは多分、金を使って個人の道楽に浸ろうとする自分自身への言い訳であって、いざ行ってみたら、いつもの旅行気分に収まってしまうに違いない。所詮は、もともとのスケベ根性が露呈した、というだけのことだろう。  ともかくも、いざ行くと決めたら、行動は素早かった。帰宅するなり車を飛ばして、閉店間際の書店へと走り、時刻表を買い込んで検討をはじめた。  まず、定石通り、本数の少ない五能線のページを最初に開き、朝から乗って午後の早いうちに乗り通せるスジを探す。それにからめて、大阪から東北へ出かけるときの定番である寝台特急「日本海1号」との接続を確認していく。  五能線に乗ったあとは、その日のうちに飛行機で帰ってくることにする。あまり長く家を留守にしたくないし、宿泊が増えると金もかかる。第一、旅の余韻がさめないうちに、さっと大阪まで帰ってきた方が、じわじわと列車で大阪に引き戻されるよりも、精神衛生に良い。  次に、JASのプッシュホンサービスで、1月2日から3日にかけての空席状況を確認する。  青森発の便は、どういうわけか3が日も混んでいた。民族大移動の谷間だから何とかなるだろう、と思っていたら、どうも勝手が違う。一方、秋田発はガラガラだった。東北の真っ只中に埋もれている秋田よりも、北海道に近く、観光地としてのハデさのある青森の方が関西とのつながりが強いのだろうか、と邪推しながら、とにかく秋田便の予約を入れておいた。  翌日には京橋駅のTis(JR西日本旅行センター)で指定券を押さえる。「みどりの窓口」もすぐ隣にあるが、航空券の手配もあるのでTisにした。 第一、無愛想で機械的な対応しかしないオッサンがいる(と一般にイメージされている)窓口よりも、若い女性がテキパキやってくれる(と信じられている)カウンターの方が良いに決まっている。ただし、私の発券を担当したのは中年のオジサンで、すべてを発券し終わるのにも小1時間を要した。  そのオジサンをてこずらせた今回のプランは、次の通りだ。 《行程》   1月1日:大阪(17:47)〜(日本海1号 Bネ 8号車14番下段)〜(車中泊)  2日:弘前(07:51/10:02)〜(2826D)〜 深浦(12:30/13:29)〜(326D) 〜        東能代(15:43/15:56) 〜(〈特〉かもしか2号)〜 秋田(16:41) 〜        秋田空港(18:50発)→(JAS899)→ 伊丹空港(20:15着)  乗車券の種別でいえば、大阪市内発・五能線回りの東能代行きと、東能代から秋田までの、2枚が1セットになった連続乗車券、ということになる。  このように、弘前まで行ってから五能線を南下する方が、東能代下車による「北上コース」よりも、Bネで約1時間半もゆっくりできる(ただし、東能代から先は「ヒルネ」の適用区間なので、どっちみちその手前で起こされてしまい、お寝坊はできないのだが)。  それに、帰路の航空便を考えた場合、青森空港は何回か利用したことがあるが、秋田空港にはまだ行ったことがないので、ちょうどいい機会だ。ローカル線に乗るという旅行目的からすれば、動機がやや不純ではあるが。  実は、出発日を1日にするか2日にするか、ぎりぎりまで迷っていた。飛行機のプッシュホン予約も、2日の便と3日とのふたまたで予約を入れ、帰りの日がどちらになっても良いように、含みを残しておいた。  いくら夕方の出発とはいえ、元日早々から亭主ひとりが旅行というのは、やはり余り感心できることではない。しかし2日に出発して3日に帰ってくると、3日の夜に友人との新年会があって、伊丹空港から直行しても、ほとんど最後の方しか顔を出せない。翌日の4日をはさんで、5日からはすぐ仕事であり、疲れが残っているかも知れない。  迷いながらも、1日出発を第一希望として指定券申込書を窓口に出すと、これがあっさりと取れてしまった。やはり、元日早々から汽車に乗って家を空けるような不心得者は、あまり多くはないようだ。これで予定は決まった。  はやばやと予定が決まってしまい、せっかく買った分厚い時刻表も、もう出番がない。まだ奥羽本線と五能線との、わずか数ページしか手をつけていないのに、すでに「古本」同然だ。それでも私は、その重たい時刻表を鞄に詰め、毎日会社の帰りに読み耽けった。そうして改めてじっくりと読んで見たら、ああすればよかった、というところがやはり出てくる。  例えば、「日本海1号」を弘前で降りずに、そのまま目と鼻の先の青森まで乗ってしまう。8時25分に下車して、ホームから岸壁に「青函連絡船記念館」として保存係留されているかつての連絡船を眺め、すぐ8時39分発の642Mで引き返すと、川部には9時31分に着き、46分間の待ち合わせで予定通り深浦行きの2826Dに間に合ってしまう。  今からでも発券変更できなくはないし、いっそのこと「勘違いして弘前で降りられませんでした」といって青森まで乗ってしまう、という手も無くはない。しかしいまさらもう一度ばたばたするのは面倒臭いし、不正乗車まがいのことはすっきりしないので、このままのプランで出かけることにする。弘前でゆっくり朝食をとって、ついでに城下町を散 策して風情を味わってくるのも一興だ。  天気予報によれば、元日からむこう数日間、秋田の天候は曇りがちで、雪も相当降るらしい。五能線のイメージにふさわしい車窓風景が期待できそうだ。期待以上の天候で飛行機が飛べなくなっては困るが、一人旅の気楽さでそれは何とかなる。  もうどうでもよくなってきた。すでに心の中では、旅が始まっているようだ。 〔本稿は1998年1月から1999年3月にかけ、H.Kumaさんのホームページ「RAIL & BIKE」(http://hkuma.com/)にて、不定期連載として発表したものです〕