第五章 《玄武洞にて》 つかの間の滞在を終えて城崎駅に戻る。いわゆる「ホーム地層」の部分に「七湯めぐり」の屋号のレリーフを発見。写真に収めたりしながら、しばし城崎との名残を惜しむ。改札口の向こうに見える街の景色を記憶にとどめてから跨線橋へ向かう。
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【写真28】第6ランナー 浜坂始発 豊岡行 |
玄武洞行きの上り列車【写真28】は往路に下りで到着したのと同じ4番乗り場から。ようやく今回初めてのキハである。久しぶりの乗り心地に妙に落ち着く。 車内でちょっと嬉しいものを2つ見た。ひとつは、床に何気なく置かれたショッピングバッグ。良く見ると「ICHIBATA」と書かれていた。松江の「一畑百貨店」である。宍道湖畔をコトコト揺られた、一畑電鉄の旅のことが思い出されて、さすがは山陰、こんなところで松江の香りに触れることができるとは、と嬉しかった。 もうひとつは、クロスシートの向いに座った女子高生が飛びきり可愛かったのであった。なんでこんな田舎にと信じられないような、東京に出てすぐにタレントをやりなさい、といいたくなるような垢抜けした美人であった。写真を撮らせてもらう時間と勇気がなかったのが残念である。 |
わずかな間にいろいろと目の保養をさせてもらって、隣駅の玄武洞【写真29】で下車。コトコトと出て行くキハを見送る【写真30】。乗降客は私一人だったが、もし他にいたらむしろ私としても気味が悪かったかも知れない。 |
【写真29】玄武洞駅 |
【写真30】ばいばい。 |
玄武洞は円山川の対岸、目と鼻の先に見えていて【写真31】、舟で渡ることになっている。32年前は、20人くらい乗れそうな屋形船だったが、実はそのことで城崎へ来た時から気になっていることがあった。往路でこの玄武洞駅を通る際に車中から目をこらしたが、川を渡る舟も岸につながれた舟も何も見かけなかったのである。正月休みで舟が出ていないのか。それとも、万事車が優勢の時代、まさか渡し舟は姿を消してしまったか。 駅で降りたが舟はない、ということになってはまずいので、城崎駅前からバスで行こうかとも考えたが、駅前の営業所で路線図を見ると、バス停もJRの駅前にあって、やはり川を渡らないと玄武洞には行けないのだった。舟が頼りなのは同じことだから、どうせならとJRでやってきたのであった。 さてどうなっているかと駅前に立つと、「玄武洞行き渡し舟 所要3分 駐車場」と、まだ古びていない看板が出ている。 |
【写真31】玄武洞駅のホームから対岸を見る。 車の止まっているところが船着場。 手前がバス停。 |
屋形船の気配はないが、道端に置かれた「←券売所」との看板に誘われて川岸へ近づくと、「舟ですか?」と農家のおばさん風から声がかかり、川岸に立つ一軒家に招じ入れられるとそこが券売所であった。この家には良く見ると「喫茶」と看板もかかっているが、まともに営業している風はない。 「今からすぐお送りしますが、お帰りは何時にします?」という。別に決まった発着時刻があるわけではなく、客足に応じて随時運航、というわけだ。 帰りの列車の時刻に合わせて4時の迎えを頼むと、「4時にはここを閉めたいので、3時半でどうですか」という。それなら最初からそう言えよ、とも思うが了承。往復800円を払って商談は成立した。 表へ出ると、待っていたのは屋形舟ではなく、川魚の漁に使うようなただのボートだった。 |
漁師というよりはやはり農家風のおじさんの舵さばきで、いよいよ対岸へと向う。水面すれすれの視点から眺める川面の風景【写真32】は昔と少しも変わらず、小さい頃の記憶を鮮やかに呼び起こしてくれた。あの時はそんな小さな舟に乗ったのが初めてで、今にもドボンとひっくり返りそうな気がしておっかなびっくりだったものだ。 感慨にふける間もなく対岸が見る見る近づく【写真33】。着岸後船頭のおじさんに聞いたところでは、以前の屋形船は3年前に姿を消し、今の小船に変わったそうだ。ごゆっくり、と言って舟は引き帰して行った【写真34】。 |
【写真32】 |
【写真33】 【写真34】 |
ごゆっくり、とはいわれても1時間しかない。小山の中腹へとだらだら続く石段を登ると、対岸に玄武洞駅と船着場が見えてくる【写真35】。やがてお城の二の丸のような小さな広場があり、さらに石段を少し登るといよいよ玄武洞がその全景を眼前に現す【写真36】。六角形の石盤が連なりあって、「柱状節理」といわれるうず巻きのような紋様を見せている。 なぜこのような奇景が生成されるに至ったかはこちらの説明を見ていただきたい。また、「玄武洞」だけでなく、この一帯には青龍洞、白虎洞など数カ所の奇勝が点在している。 |
【写真35】 玄武洞のたもとから 対岸を見る。 |
【写真36】 玄武洞の全景 |
撮影をひとしきり終えて、改めて昔立った場所を眺める。今は柵ができていて、昔ほど崖っぷちの間際まで近寄れなくなっているので、完全に同じ場所に立てるわけではない。また、崩れた岩盤がかなり堆積していて、地表の形なども変化しているので、あの辺だったのかな、と推測するしかない。 この場所での昔の記憶は、それほど確かなわけではない。列車の本数が少ないためか、城崎から玄武洞まではタクシーを奮発したので、川べりにぽつんと立つ玄武洞駅のホームを見てこれに乗りたいと思ったこと、また先述のように舟に乗ってビビったこと、そして玄武洞を見上げて感心したこと、くらいである。あれから大阪までどうやって帰ったのかさえ憶えていない。 それだけに、今再び玄武洞を前にしても、あたりの風景などはまったく記憶になく、こんなところだったのかと新鮮な気持ちさえ覚えるのだが、一方ではやはり、やっと来れた、との感慨が押し寄せる。もう一度行きたいと思いながら、随分と長い時間がかかったものだ。まるで長年叶わなかった墓参をやっと果たしたかのような気持ちさえする。 ここに昔来たんだな、やっとまた来たよ、ここだったんだなあと、言葉にもできないような思いをとりとめなく反芻しながらたたずんでいたが、いつまでも、というわけには行かなかった。迎えの舟は時間ぴったりにやってきた。 家族を連れてまた来よう、その気になればすぐにでもできることさ。そう思う他には、今日の未練を振りきる方法はなかった。 |
(C)Takashi Kishi 2003 |