■山陰本線の西端へ
わがキハ120はようやく長門市に到着した。「まえがき」の項では、この「山陰本線・駆けある記」を本編3項で終わることになっていたのだが、いまだに九州への上陸はおろか、下関にさえ行きついていない。
乗った降りたとだらだら書かずに、印象的だったことにだけ的を絞って行けばいいのだが、しかしいざ書き始めるとなかなかそううまく行くものではない。実際現場に行って見てきた者にとっては、切るに切れない心のしがらみが旅のメモ帳のあちこちにこびり付いていて、削ることを私に許さない。推敲の手が鈍る。
仕方なく、勝手きままな個人サイトであるのをいいことにストライクゾーンを拡大解釈した結果、さらに2編を追加することにした。ただし、事前の予想を上回る乗客数に急遽対応したというコジツケで、基本編成に加えての2両増結、という“特番”扱いである。つまらぬ意地を張っている訳ではなく、ネーミング上の言葉遊びみたいなものだけれど。
「青海島」(おうみじま)の名をご存知だろうか。北長門海岸国定公園における観光の一大ハイライトであり、面積は14平方キロ、周囲は約40kmあって、同国定公園域内の島の中でも最大である(たぶん)。
島だから本土との間は当然海で隔てられているが、島が大きく海が狭いので、地図でざっと眺めただけでは半島のように見える。
長門市駅は規模こそ大きくはないものの、この青海島への観光拠点としてそれなりの構えを有していて、バス乗り場やみやげ物店などが駅前広場を取り巻いている。第3章で書いた、特急「いそかぜ」の利用促進看板もここにある。
広場の中でひときわ目立つのが、ロータリーの中央に置かれたD51の動輪だ。詳しい由来はモニュメントに彫り込まれた説明文に譲るが、本州最後のSLが運転されたのがこの長門市〜下関間であり、それを記念したものだという。
その最後の運転とはいつだったのか、説明文には記載がなかったので後日調べたところ、それはどうやら1974年(昭和49年)11月30日ということらしい。ちょうど30年前である。東海道新幹線の開業が40年前だから、本州に新幹線とSLの共存した時代が10年間もあったわけだ。そう考えると30年前とはつい最近と言っても良いような気もする。
すでに時刻は午後1時(2004年9月12日)に近い。「近い」と抽象的な表現しかできないのは正確な到着時刻のメモが残っていないからで、定時だったのか遅延したのかはっきりしない。列車を待たせて用を足す老婦人が出没する山陰本線であるからとても定時に着いたとは思えないが、車窓に展開するローカルな景色を満喫するうちに私はすっかりいい気持ちになってしまい、数分の遅れなどどうでもええわ、いちいちメモなどクソクラエ、という心理状態になっていたのだった。
確かにこの山陰本線というところ、特に出雲市から西の山口県側は、普段私が通勤で乗っているのと同じJR西日本だとは思えない。国電(古い!)が15秒単位でダイヤを刻み、2分遅れると車掌が車内放送でおわびを流す都市圏とは、明らかに時間の流れ方が違っている。
ちゃんと目的地に着いたのだから少々の遅れなどどうでもいいようなものの、腹具合だけは放っておくわけにはいかない。私自身の時間の感覚がいかに鈍ろうとも、食事ができるようなまとまった乗り継ぎ時間はここでしか取れない、ということを時刻表は数字で物語っている。
駅前には県道が走っているが市街の中心部は駅よりも西側に偏しているようで、商店街というにはあまりにまばらな間隔でふとん店やら銀行やらが看板を出している。食事のできるところは、とながめつつ県道を歩くと、ほどなく「ふれあい食堂」と書かれたのれんが目に入った。下町の定食屋にちょっとお化粧した程度の簡素な造りだ。手っ取り早く空腹を満たすにはこれで十分、とのぞいてみたのだが、しかしこれがあいにく休業日であった。ひょっとすると毎日が休業日なのかも知れない。
「食いだおれ」といわれる大阪に住んでいても普段は特に意識しないが、こうして地方へ旅した時にはその有り難さを感じる。大阪界隈ならば、和・洋・中の選り好みさえしなければ時間帯を問わず何かしら食い物屋にはありつける。商業施設中における飲食業のウエートが高いのかも知れない。しかし同じ感覚で旅先にいくと必ず誤算が生じる。れっきとした県庁所在地の駅前通でさえ、早朝に夜行で着いたりすると喫茶店の一軒すら見つけられないことがある。
唯一といって良い「駅前食堂」が店を閉めているようではもはや期待できまい、と思っていると、さらにほんの数軒先にほかほか弁当の店が営業していた。外食はしないがお持ち帰りは盛んな土地柄なのかも知れない。
さすがに昼食時だけあって、店内は2・3の先客で賑わっていた。私は「13時40分に取りに来るから」と言って幕の内を注文した。小串行きの発車時刻13時51分に照準をあわせ、できたての弁当を車内でいただこうという計算だったのだが、駅前に戻ってぶらぶらしてみても特にこれ以上見るべきものもなく、暇を持て余して予定よりも10分早く弁当屋に舞い戻った。幕の内はもうできていた。
弁当を下げて改札を通ると小串行きのキハ40が待機している。ガラガラなのかと思いきや、発車まで10分を残してほとんど席がふさがっている。かろうじて進行方向に向って左の通路側に席をとったが通路には立ち客まで出てきた。ゆっくり車内で弁当をひろげようかという風情ではないので、しかたなく発車までの間に急いで平らげてしまう。駅弁を楽しむというよりは、単なる空腹を満たすための作業になってしまった。
食べ終わってしまうともうする事がなく、さっきまでと同じように繰り返されるローカル線の風景に身をまかせるばかりだ。キハ120ならば半室の運転席横はかぶりつきの特等席だったが、このキハ40は乗務員室で前方はさえぎられ、これ以上頑張って写真を撮ろうかという意欲も失せて、ただとろんとした視線を窓外に向けるのみである。
いよいよ本州も西の果てが近づき、阿川を過ぎるとこれまで沿ってきた日本海とも別れて山間部に分け入る。これまで西進してきたのが、大きく首を振って南東へ進むようになる。
難読駅名の「特牛」を過ぎると、今度は90度も右へ大きくカーブして滝部。この駅前には温泉があって、保養所のような小奇麗な建物が一段高いところから駅を見下ろしている。ここから10キロほどさらに入ると荒木温泉、一の俣温泉等々の温泉場があるといい、湯治客誘致のためにわざわざ路線をこうした山間に引き込んだのかと思わせたが、実はこの滝部に一帯の豊北町の役場があって、地元の中心地区を為している由。
次の長門二見からは再び海が視界いっぱいに展開する。ただし、さっきまで見ていた海は北に面した日本海だったが、ここは西に面した響灘である。時刻もいつしか午後3時に近くなり、傾きかけた陽光が海面に反射して車内にさし込む。
14時58分、小串に到着。小串は1914年に長州鉄道(東下関〜小串)として開業したという。その90年の歴史を反映してか、いまでもほとんどの普通列車を小串止めにしてしまうほど、運転系統の要になっている。ほとんどの客がそのまま下関行きのキハ47に乗り移る。いよいよ最終ランナーである。
接続は11分で、同じホームの向い同士の乗り移りだから大変便利だが、接続が良すぎて駅のトイレに行く暇がおぼつかない。私はさっき降りたばかりのキハ40に引きかえし、車内トイレで用を足した。
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