山陰本線・駆けある記 増結2号車 (Apr.28,,2006) | |
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完結に寄せて 昨年3月に前回の「増結1号車」編を掲載してから、すでに1年以上が経過してしまった。今回ようやく腰を上げ、この項を書き上げようとして久々に原稿のテキストファイルを開いてみたら、冒頭に記してある「掲載日」の部分が「Apr. ,2005」となっていた。最終の掲載日付部分だけは空欄にしてあるが、ともかくも昨年の4月中にはアップさせるつもりで、一時は制作に着手していたわけだ。あの2005年4月25日に、福知山線の脱線事故が起こるまでは。 犠牲者の中には、不幸にも私の後輩の大学生が含まれていて、鉄道をネタに紀行文を書くという行為に集中できる状態ではなくなった。それからは鉄道への関心を半ば失ったような状態で半年が過ぎ、後の半年は惰性で過ぎた。そして気がつけば1年が経ち、「あの日」が目前となっていた。 私は「書かなければ」と思った。 この1年のブランクは、犠牲者を悼んでの断筆などという大それたものではなく、ただ単に「書く気になれなかった」だけのことだ。しかし今考えると、それは私なりの「内面的な服喪期間」であったのかも知れない。だとすれば、この1年という節目を迎えて、何か行動を起こさなければならない。1年経ったから喪が明けました、というつもりは毛頭ないが、事故を契機に未完のままとなっているこの項を、完結させるとしたら今しかない。そう思えたのだ。 ■関門そぞろ歩き 15時44分の幡生で山陽本線に合流し、めでたく山陰本線を乗り通す。長門市〜仙崎間のいわゆる“仙崎支線”に分け入る暇はなかったけれど、とにかく京都〜幡生間が一本の線につながったのだからいいことにする。 やがて下関が近づき、住宅の建て込んだ丘陵地の斜面の裾を左へ左へと巻く様に走る。地形的に、大崎から品川あたりにかけての山手線の風景を思い起こさせるが、その丘陵地の向こうに見え隠れするのは東京タワーではなく関門橋の主塔だ。 そのまま左にカーブを続けると旧下関駅の方向だが、線路はやがて高架になって右へカーブを切り、15時40分、1942年開業の現・下関駅へ到着した。(この写真の駅舎東口も残念ながら、2006年1月7日、放火により全焼してしまった) そのまま関門トンネルで九州へと乗り継ぐのも楽しいが、今回は「人道トンネル」を通って徒歩で海峡を渡ることにしているので、そのまま改札を出る。 駅前からは、高さ153mの「海峡夢タワー」がよく見える。旧・下関駅の跡地に建つ巨大なランドマークだが、見ればタワーの背後には見事な虹が出ているではないか。これは一見ラッキーなようだが、実は困る。これから渡る関門海峡はちょうどあの虹の方向だ。虹は大気中の雨粒に西日が当たってできているのだから、これから向かう海峡方面では雨が降っている、ということになる。いやな予感がしながらバスに乗り込んだ。 発車して市街地を進むと、ほどなく海に沿う快適な幹線道路となる。トンネルの入り口は、源平の壇ノ浦合戦ゆかりの「御裾川( みもすそ川 )公園」に隣接していて、公園の住所もズバリ「下関市壇ノ浦町」である。バス停「御裾川」までは10分ほどで、居眠りする時間もない程のわずかの乗車なのに、旅の疲れで集中力を欠いたのか、気がつくと3つもバス停を乗り過ごしていた。 引き返そうとあわてて降りたが、悪い予感ほど良く当たるもので、やはり雨が振り出していた。頭上には黒くて低い雲が、フィルムの早回しのように流れている。見とれているうちに雨脚が強まり、雨雲が通りすぎるまで商店の軒下で10分ほど降りこめられたが、雨上がりの海峡にかかる虹と関門橋のデュエットは素晴らしく、まだしばらくの間その場を動くことができなかった。 人道トンネル、正しくは「関門トンネル人道」(車道のトンネルに並行する人道)は、昭和33年の開通で案外新しいが、構想は昭和初期からあり、着工は昭和12年と、それなりに重い歴史を背負っている。ステンレス色のエレベータの扉が重々しく開いて乗りこむと、深さ60mのトンネルまで降りるのに40秒ほどかかる。高層ビルのエレベータのように外の景色が見えるわけではないが、それだけに暗い地底へと降りているのだという実感が湧いてくる。 トンネル階で降りると少し広いスペースがあってパネル展示などやっており、その脇にいきなりトンネルが口をあけている。地域の足、といった感じで高校生のアベックからバイクのおじさん、自転車のおばさんまで、ごく普通の人々が普通に海峡の下を往来する。 ネットで検索すればこのトンネルのことはいくらでも出てくるのでこれ以上は書かないが、山口・福岡県境の標識だけは名物なのでやはり載せておく。海底部分長さ780mのトンネルを13分で通りぬけて、門司側に上陸。すでに海峡は夕暮れの雰囲気だ。 門司側から見る関門橋は、逆光の中にあった。幅630mの海峡を挟んで対峙する本州側が一段と間近に感じられるが、この海面下およそ50mのところに、ついさっきまで自分の肉体が存在していたという実感はなかなか湧いてこない。 そうやって海を眺めているのは私だけで、周りにはほとんど人影がない。トンネルの中ではそれなりに往来があったのに、さっきからエレベータの乗降口にはほとんど人の出入りがないように思われる。地底人だけが知っている抜け道でもあるのかも知れぬ。 海峡を渡る風に吹かれてバス停が立っている。次のバスはと見れば、門司港駅方面へは平均して1時間に1本、場合によっては1本もない時間帯もある。下関側では5分間隔で頻発していたというのに落差が大きすぎる。観光スポットの多寡や地理的な条件などで人の流れがまったく違うからだろうが、関門橋、壇ノ浦といった見所を共有しておきながら、これほど差がつくのは唖然とするしかない。 とにかく次のバスまで1時間以上あるから、待っていては日が暮れてしまう。門司港の市街地は目と鼻の先に見えているから、あとは海岸線に沿って歩くしかない。 面白みもない車道を15分ほど歩くと踏み切りとトンネルがあった。トンネルの反対方向は門司港方面につながっている。地図を見ると、門司港駅からさらに北へ伸びている貨物線のようだ。後で調べてみるとこれは「田野浦公共臨港線」といい、セメントの積み出しのための路線であった。ただし、私が訪れた時点で、すでに使われなくなってから1年ほど経っている。 線路とほぼ並行して道路があり、これに沿って歩くと門司港駅までの近道になる。道中には古びた倉庫街などもあるが、「門司港レトロ」というのか、観光資源として一帯の整備が進められていて瀟洒な舗道もできつつあり、無骨な貨物線との対比が異様な感じがする。この遊休線路を活用して観光トロッコ列車を走らせる構想もあるが難問山積、これを書いている時点でも実現のめどはまだ立っていないらしい。 ところどころ枕木が真新しく補修されていて、今にもDLが走ってきそうだが、休止から1年を経て、生い茂った潅木の枝が車両限界を大きく突破していたりする。 やがて錆びた線路は門司港駅構内への側線へと吸いこまれ、それ以上は線路に沿って進めないが、左へ折れて少し進むと「九州鉄道記念館」があり、九州鉄道の「0マイル」の碑が復元されている。明治24年に開業した九州鉄道の初代門司駅はこの地にあった。現在の門司港駅のわずかに東方、今は門司港運転区として電留線が並んでいる場所で、開業後23年で現在地に移転した。 有名な門司港の駅舎は、間近に見ても鑑賞にたえる歴史の重みがあった。駅前は簡素な石畳の広場で、バスターミナルなどが占拠していないのも景観保全への配慮と思われる。その広場を挟んで駅舎と対峙しているのが「日本通運」の支店ビルである、というのが何より好ましい。鉄道駅に日通あり、由緒正しい門司港駅にふさわしい光景だ。私の母方の祖父も、岡山県内の小駅に隣接した日通の営業所長をしていた。 今夜は新門司港からフェリーで大阪へ帰る。乗り場への連絡バスは門司駅前から出るので、これから小森江・門司と2駅だけの九州鉄道旅行を楽しみ、今回の山陰行に幕引きとする。 振り返れば、関門橋の主塔が淡い青色の中に暮れて行こうとしている。その視線の先に、海底を歩いた海峡の道が、そして大阪から乗り通してきた山陰路の鉄路が重なって見えた気がした。 |
(C)Takashi Kishi 2006 |
門司港駅を後に |