山陰本線・駆けある記 B  (Oct.6,2004)  長門市行きキハ120系単行(益田) ※クリックで拡大。
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長門国 失われつつあるものとの邂逅

 10時42分、山口線との接続駅・益田に13分遅れで到着した。次に乗る長門市行は11時01分発で、もともと30分程度しかなかった接続時間がさらに短くなった。
 駅周辺を一回りするため急いで改札を出る。「益田」と途中下車印が捺されたが、小さくて四角い通常の駅名小印ではなく、普通の丸いシャチハタだった。駅名というよりは、「益田さん」が宅配便の受領印でも捺したかのように見える。そういえば松江では途中下車印を捺さなかった。

 1988年1月、私は小郡から山口線経由で益田まで来たことがある。ただしその時は山陰本線ではなくバスに乗り換えて、旧・国鉄岩日線である錦川鉄道の始点・錦町へと向った。それ以来16年ぶりでこの駅前に立ったことになるが、駅舎や周囲の風景にはまったく見覚えが無い。当時は「鉄道からバスへの乗り換え地点」という程度の意識しかなく、山陰本線そのものを目的としてやってきた今回とは、関心の度合いが違ったのだろう。
 駅前通りには「人麻呂と雪舟の町」と大書されたアーチがかかっている。益田がそういう歴史や文化に縁のある土地柄だったとは意外だが、面識もないのにセットで宣伝に担ぎ出されたこのお二人も、今ごろ目を回しているかも知れない。
 ところどころに更地があり、駅前再開発の完成予想図が掲げられている。ホテルや高層マンションが大きく描かれているが、肝心の駅はそれらの間に挟まって現状のままの姿で小さくなっている。高架や駅ビルに建てかえられる予定は無いらしく、何か取り残された感があるが、ホテルやマンションも果たして本当に実現するのかどうか私にはわからない。


 ホームに戻ると、長門市行きのワンマンカーが特急「スーパーまつかぜ」と並んで入線している。使用車両は車体が短く馬力も小さいキハ120系で、塔載されたエンジンは特に鉄道車両用として開発されたものではなく一般的な産業機械用だという。そのせいかどうか、発車時の唸りにも、低くとどろくような気動車の音とはやや異なり、パラララと高周波成分を多分に含んだような軽やかさが感じられる。
 ワンマンだから乗客への案内はすべてテープ音声で行われるが、通り一遍の放送の最後に聞き慣れないフレーズが流れた。
「この列車にはトイレはついていません。ご用の方は運転士にお知らせ下さい」
 「お知らせ」したら、一体どうなるというのか。すぐには理解できなかったが、その答えは後で判明することになる。

 益田を出てしばらくは右手に日本海を見ながらのシーサイドラインだが、島根県を出て山口県に入る頃から海岸線はがぜん複雑さを増してくる。その景勝美のおかげで一帯は「北長門海岸国定公園」に指定されていて、山口県下の日本海沿岸のほとんどがこの公園内に含まれている。一方山陰本線は、険しくなった地形について行けずに山間へ分け入って低い峠を越える。
 須佐で上り特急「いそかぜ」と交換する。「いそかぜ」は上り・下り各1本が益田〜小倉間を結んでいるが、同区間で運転される優等列車はこの1往復のみである。すなわち、この須佐で特急を目にすることができるのも、上り1回・下り1回の合計1日2回だけということになる。文字通り孤軍奮闘、最後の砦、背水の陣で山陰と九州をつないでいて、この唯一の特急を何とか存続させようと、長門市の駅前には利用促進を呼びかける看板も設置されているほど貴重な存在なのだ。

孤高の老雄・いそかぜ(須佐) ※クリックで拡大。 わがキハ120系は、居住まいを正してこの貴重な特急列車のお出ましを待つ。やがて数分後、緩やかなカーブの向こうから、由緒正しいエンジとベージュの特急色に身を包んだキハ181系3連が悠然と現れた。
 大阪と鳥取他を結ぶ特急「はまかぜ」も同じキハ181系だが、塗装はグレー系に変更されている。一方この「いそかぜ」の塗色には、夏休みなどの特別な時に高い料金を払わないと乗れないのだ、という子供の時からのあこがれが擦り込まれている。その緊張感は、特急間合い運用の通勤ライナーを手軽に利用できるようになった今でも、やはり変わることはない。
 低いエンジン音とともに「いそかぜ」は走り去り、1日2回だけの華やかなセレモニーは終わった。ステンレス車体のDC特急には望み得ない、鉄の塊が作り出す重量感の余韻に浸りながら、旧国鉄の匂いを残す老雄の健闘を祈った。


 須佐を出ていくつかトンネルを抜け、次の宇田郷あたりからは日本海の眺めが開ける。ようやく天候が回復し、海の色も明るさを取り戻した。明るさを取り戻した日本海に心も軽く・・・(須佐〜宇田郷) ※クリックで拡大。
 ある小駅で、老婦人が運転士に「お手洗いに行きますから」と声をかけた。「トイレはあそこです」と運転士が指差す先は、停車しているホームから跨線橋を越えた本屋側の一角だ。若者ならひとっ走りで往復するだろうが、お年寄りの足で階段を上り下りして、ひと用事済ませて戻ってくるには気の遠くなるような時間がかかるだろう。女性はただでさえ所要時間が長い。しかし列車は老婦人の戻りを本当に待っていた。
 運転時間が長いのに車内にトイレがないこの区間では、あらかじめダイヤにゆとりを持たせて、乗客の生理現象に柔軟に対応しているのだという。恐らくあの老婦人は、ちょくちょく列車を待たせて用を足す常連客なのだろう。

 特急停車駅の東萩で乗客が入れ替わった。次はいよいよ萩、玉江である。この両駅は「まえがき」の項でも書いた通り、並べて読むと人名になるというのでマニアには珍重されるところだ。
 もちろん実際に来て見ると特別変わった場所でもないのだが、萩のホームは「開府400年」の真新しいノボリが飾り付けされて華やいでいた。明治維新の人材を育んだ萩は、もともと関ヶ原の合戦後に毛利輝元の36万石の城下町として発展した。「開府400年」とはその時代を指すのだろう。
 続く玉江駅付近の車窓からは、ひときわ目立つすり鉢型の山容が望まれる。指月山といって、このふもとに萩城址がある。


 いつの間にか時刻は正午を回っている。昨夜に大阪を出発してから半日以上が過ぎたが、下関までの行程はまだ3時間余を残している。さすがに山陰本線は奥が深い。
 列車の揺れに身をまかせ、ただひたすら見知らぬ土地に目をこらす。 海。田んぼ。寄りそう家々。山口県の奥の奥までやってきて、何十年と変わらぬ日本のふるさとの姿を見た。行きも帰りも旅の道中に楽しみは多いけれど、今はただこの一瞬の風景に出会えて良かったとの感慨が心にしみた。
狭い入江に寄りそう暮らしがある(飯井) ※クリックで拡大。
刈入れの終わった田畑に秋が忍び寄る(玉江〜三見) ※クリックで拡大。  その風景の片隅を、2条の鉄路がよぎって行く。朽ちかけた枕木にかろうじて支えられながら。土地の自然と歴史に溶け込んだ、か細くも健気な路。

(C)Takashi Kishi 2004
ものいわざるは