第四章 (越前大野 〜 終章) |
大野盆地の西を扼す山地を越えて、夕闇の中を福井へ向って淡々と走るうちに、私の体調には異変が生じてきた。催してきた、のである。発車前には念入りにトイレに行ったのだが、夕方飲んだビールが降りてくるにはちょっと早すぎたようで、今ごろそのツケが回ってきたのだ。しかも、急激に。 福井到着までには優に30分以上ある。なんとか終点までと思って2駅は我慢したが限界は明らかで、最悪の事態を迎える前に決断せねばならない。この列車を捨てると次は2時間以上来ないので日帰りは断念となるし、コンビニも喫茶店も何もないような駅で降りようものなら、真っ暗な寒空の下で田舎町を2時間以上さまよう羽目になってしまう。 停車中に運転士にちょっと待っていてもらいホームで用を足そうか、等々いろいろな考えが脳裡をめぐったが、結局大事の前の小事にはかまっておられなくなって、ここがどの駅かも確かめずに私はエイヤと降りた。 |
10分ほど歩くと家並みも途切れ、国道は山間の登りにかかって寂しくなった。行くしかないだろうと意固地になる私と、本当にいいのかとブレーキをかける私が同居しているので、飲食店のような灯りを見つけるとこれ幸い、と脇道に入る。しかし看板を見ると「歌声喫茶」とあって、どうせ地元の歌好きがたむろしているのだろうから、こういう場所で肩身の狭い思いをしながら過ごすのはおもしろくない。 ここから先は一乗谷へ向けての山越えである。雪がどっさり残っていて歩みが思うように進まないかも知れない。苦労して歩いたあげく、下手をして後続の列車にも遅れを取ってしまっては元も子もない。やはり歩くなど無理だったのだ。私はあえなく徒歩を断念して、すごすごと元来た道を引き返した。今度こそ、正気に返ったのである。 知らない夜道を歩くのは不安なものだが、来たばかりの道を戻るのも張り合いがない。退屈しのぎに歩道に積もった雪を蹴っ飛ばしてみるが、いつまでも雪遊びができるわけでもない。 やるせない気持ちで歩いていると、タクシーが私を追い越して、100mほど向こうで止まった。さては夜道を行く私を上客と見て待ってくれたのかと、すがる思いで追いついてみれば、これは予約客の迎車であった。タクシーで福井へ向う可能性も途絶えた。 突然、夜6時を知らせるミュージックサイレンがあたりに響いた。「夕焼け小焼け」のメロディは「お手手つないで皆帰ろ、カラスと一緒に帰りましょ」と歌うが、大阪へ帰るに帰れず、見知らぬ街を思いがけず一人でさまようことになった私にはせつな過ぎる。 残酷なまでにでき過ぎた舞台装置にあきれていたところで、携帯電話が鳴った。 「あのなお父さん、アニメのビデオがうまいこと録画できへんねん。」 中学1年の娘の脳天気な声だった。 「お父さんな、今旅行に来てるねん。帰ったらみてやるから。」 別に私たち親娘は別居しているわけではないが、親父の行動なんかに関心のない娘は、私がこんな山間の町をさまよっていることなど知る由もない。そんな状況でも即時に家族とつながることのできる世の中に戸惑いを覚えるが、家族が自宅で普段通りの日常を過ごすさなかに自分は人知れず福井の夜道を歩いている、そのギャップはおもしろい。私は少し元気が出た。 |