飯田線・雨のち晴れ 第4回 (Sept.26,2009)  

 御殿場線・後篇 (御殿場 - 沼津)

 御殿場駅の標高は455mで御殿場線の最高地点にほど近く、舌状に伸びた富士山の裾野の鞍部に位置する。駅を作るならここしかなかろう、というような、一瞬の平坦地である。国府津を出てから延々と続いた登り道も、ここを境に一気に下りに転じる。
 まるで、コースの頂点まで引き上げられたジェットコースターが「さあこれから一気に駆け降りますよ」と呼吸を整えているかのようで、発車を待つわずかな時間にも、ひそやかな緊張感を感じる。普段乗り降りしている地元客には無縁な感覚だろうが、面倒くさい勾配表まで作って乗り込んできた旅行者としては、そのくらいの盛り上がりは欲しいのである。

 その緊張感のご利益もあってか、御殿場を発車したとたん、グイと前のめりになったような感覚に襲われた。通常の4分停車を1分に切り詰めて、列車は先を急ぐ。
 富士の東斜面が、午前の順光を浴びて眼前にある。やや霞んではいるが、火山ならではの赤茶けた、無骨な山容をつぶさに見ることができる。
 富士山と言えば、普段は新幹線から見る南斜面しか知らない。ベクトルを90度変えて、間近に眺める富士の表情は新鮮で、月の裏側の写真を初めて見た時のような違和感すら覚える。
 殺伐とした荒蕪地の大半は自衛隊の「東富士演習場」で、戦車やヘリの実弾演習の模様が時折ニュースで流れる。そんな物騒な演習場のすぐ周囲には、平和の象徴のようなゴルフ場が無数に点在している。
 
 御殿場を過ぎてから線路の沿う水系も変わり、それまで付き合ってくれた鮎沢川と分水界を接する「黄瀬川」とともに、ほぼ真南へと向かう。
 20パーミルほどの下りをひたすらカタタン、カタタンと単調に下るうち、やがて慎重なブレーキ扱いでそろりと列車が止まったのは「岩波駅」だ。セオリー通りの平地ではなく、勾配の途中にそのままホームが設けられている。
 登りに強い電車の時代になってから設置された駅なのだろうと思っていたが、後で調べてみたら1911年(明治44年)に開設された「岩浪信号所」を前身に持つ、意外と由緒ある駅なのだった。しかも1944年(昭和19年)に旅客営業を行う岩波「駅」となった当時は、引き込み線にホームを設けたスイッチバック駅だったという。改めて地形図を見ると、確かに駅の南西側に沿って、かつての引き込み線跡が築堤の記号で表わされている。
 このスイッチバックが解消されたのは1968年(昭和43年)の電化時だから、やはり電車時代の到来あっての現在の姿なのではあるが、それにしてもスイッチバックの跡を知らずに見逃したのは惜しい。不勉強が悔やまれる。

 オイシイところを見逃したのも気づかずに気持ち良く下るうち、右窓には愛鷹山が近付いてきた。これもまた、普段新幹線から眺めていると、富士の裾野に顔を出した噴火口のひとつくらいにしかとらまえていなかったが、こうして間近に見れば思いのほかギザギザと、無骨な山肌をさらしている。名前は愛らしくともさすがは火山、お見それしましたといったところか。
 やがて新幹線の高架が頭上をまたげば、終着の沼津も近い。左から東海道本線が徐々に接近して、10時4分到着。遅れは2分になっていた。
 考えてみれば御殿場線の後半は、乾燥しきったかのような火山帯の、不毛の荒野ばかりが印象にある。富士火山帯の間近を縫ってはその山群の荒々しさを次々に見せてくれる、サファリバスのような線区でもある。



(C)Takashi Kishi 2009
ものいわざるはロゴ
前のページ