飯田線・雨のち晴れ 第5回 (Feb.24,2011)  

 身延線

 沼津から富士まで、東海道線でのどかな駿河路を下る。
「M字開脚ルート」でいえば両足のちょうど中間部分にあたるので、位置的には多少の湿り気がありそうなものだが、今日の車窓は健康的な日差しに満ちている
 さて、富士からの身延線。甲府までの88.4キロをおよそ2時間半かけて走るので、表定速度は35キロほど。なかなかの鈍足だ。
 すでに書籍やWeb上で語りつくされた話だが、
富士から3つ目の入山瀬までの間には、現在とは逆方向、つまり東向きに分岐する廃線跡が存在する。大正年間に馬車鉄道の路線を買収して開業した名残というわけだが、有名なネタなのでこれ以上は書かない。M君ともどもホームの東端から、あれがそうか?と目を凝らすうちに定刻の10時46分を迎えて発車。標高は10m余。
 3両編成の車内は、閑散と言うほどではないがやはり空いている。斜め向かいのボックスには男子学生風の一人客が陣取り、車内アナウンスに神経を集中させながらボイスレコーダーを操作している。やはり身延線には、こうしたファンをひきつける魅力があるのだろう。「乗り鉄」と「録り鉄」の違いはあれど身につまされる光景だけに、このファン氏と飯田線の車内で再び出くわすシーンは想像したくない。自分を見ているようだ。
 富士山西麓の朝霧高原に源を発する潤井川に沿って、平野部を20分余り北上。やがて一帯の中心地である富士宮、続く西富士宮と過ぎると、列車は潤井川を西岸へ渡ってさらに大きく左に反転し、今度は南下を始める。これから稜線の鞍部をすり抜けて、いよいよ富士川が刻んだ谷筋へと抜け出ることになる。
 その稜線の裾に取り付いて間もなく、左窓を走り去る木々の合間に思いがけず展望が開けた。平野の対極にそびえる富士山の、整った山容と雄大な裾野が午前の巡光に映えて格別に美しく、車窓から見る富士山としては、恐らくここが一番ではないかと思わせた。カメラを構えることもあきらめて見とれる。

 右へ左へと等高線をなぞり、フランジをきしませながら河岸段丘に下りると芝川。ここで富士行き上り列車と交換し、一息ついたらいよいよ富士川に沿って甲府盆地をめざす。
 富士川の流れは複雑に蛇行して深い谷を刻んでいるが、見上げるようなV字谷ばかりというわけではなく、所々で広大な河川敷が出現する。まるで干上がったダム湖のようだ。地図上で測ると、対岸まで1kmにも及ぶところもある。
 線路はこの河川敷と山すその接点を忠実になぞって敷かれ、しかも富士川の本流を対岸へ渡ることは一度もない。だから右窓の視界は常に山肌で閉ざされ、そして左窓にはいつも広い川面が開けている。河川敷の幅は広くても足場が低湿なので、できるだけ山に寄り添って行くしかないのだろう。
 たまに現れるまとまった平地は堤防に囲まれ、集落を形成して駅が置かれている。発車すると再び山すそに取り付いて次第に高度を稼ぎ、湾曲した流れに張り出した尾根をトンネルで抜けてはまた平地へ出て停車する。この繰り返しである。グラフに起こしてみると、勾配線が見事な山型を描いていた御殿場線とは対照的に、アップダウンを繰り返しながら高度を稼いでいく特徴が現れていて面白い(下図)。
 列車はピョーと甲高い警笛を連発しては小刻みなカーブを繰り返し、台車の側受がきしむ音を車内に響かせながら富士川を遡上する。
 屈曲する流れの外側は急流によって山肌を侵食するので、対岸を並走している国道はところどころ崖っぷちに張り付き、箱根駅伝のコースに登場する“函嶺洞門”のような落石よけの半トンネルで難所を越えている。一方の内側は流れがゆるく、土砂が堆積しやすいので幅の広い砂州を形成する。集落や駅はたいていその様な場所に立地している。
 富士駅を出ておよそ1時間、そうした駅のひとつである内船に停車。“うつぶな”と読む。対向列車を待つ車内で、まばらな乗客たちは咳払いひとつせず、じっと発車を待っている。ホームにも駅前にも人影はなく、まるですべての生命が静止したかのような静寂の中で、ただ線路際に揺れる名もない花の色彩感だけが生き生きと際立っている。
 やがてわずかなざわめきに気づいて耳を澄ませば、それはいつの間にかしとしとと忍び寄ってきた雨音であった。フロントガラスににじむ水滴を煌かせながら対向列車のヘッドライトが現れ、静寂は破られた。

 進むほどに対岸の景色は険しさを増していく。地図上で読み取ってみると、崖上の集落と川面の高低差は80mにも及んでいる。対する我が列車は、一見広々とした田畑の中を進んでいるようだが、稲架(はさ)が居並ぶのどかな景色の彼方はストンと落ち込んで、富士川の流れに没している。幅広い河川敷は雄大なようでいて、しかしひとたび川が暴れれば、そのすべてを飲み込んで見せるぞ、と言わんばかりの迫力ある地形が続く。

 正午きっかりに、沿線の中心駅・身延に到着。2面3線のホームを持つ構内が大きく見える。結構な乗り降りがあって、身延線の後半戦に入る。標高はおよそ160m。



 「次は“はだかじま”、はだかじまです」と意味深なアナウンスが流れて、「何て書くの?」とM君が身を乗り出す。「波高島」である。富士川の激流が中州を洗った往時を思わせるようないい名前だと思うが、ここは身延線のルート選定上からも興味深い地点だ。
 この波高島は支流の常葉川が富士川に合流する水運の要衝としてかつて栄えた土地柄だが、ここから鉄路は、これまで忠実に寄り添ってきた富士川と別れ、常葉川を遡って旧・下部町(甲斐常葉駅)、旧・六郷町(甲斐岩間駅)、といった主要な集落を結ぶ山間ルートをたどっている。この区間が開通した昭和初期のトンネル掘削技術の水準や、当初から出力の大きな電車運転として設計されたことなどを考えれば、富士川沿いの急峻な地形よりも、常葉川が作り出してくれた“抜け道”をたどった方が好都合だったのだろう。
 市之瀬と久那土の間にある下部トンネル付近で、沿線の最高地点を迎える。トンネル入口の標高が290m程度なので、内部の最高地点では300m前後ではないかと思われる。

 標高220mほどの甲斐岩間に下って停車。富士川の巨大な氾濫原に拓かれた旧・六郷町の中心駅で、特急も停車するのだが、それでも今や無人駅だ。
 ここで年配のご婦人2人連れが乗りこみ、我々と同じボックスで相席になる。これから生け花のお稽古にでも行くのだろう、新聞紙にくるまれた包みの端から、薄紫の花弁が垣間見える。富士を出発しておよそ1時間40分、雄大かつ単調な富士川の景色を見続けてきた目には、生気と潤いに溢れた花々の色彩がいかにも新鮮だ。思わず「キレイですネエ」と声をかける。もちろん花のことである。
 ご婦人方はよくぞ気がついてくれましたとばかりに、その花の名は「紫苑(しおん)」というのだ、と教えてくれた。他にもいろいろとしゃべったように思うが、覚えているのは結局それだけだった。

 山間ルートが終わって、鰍沢口でようやく甲府盆地に出る。富士川もここでは笛吹川、釜無川などいくつもの支流に姿を変える。いつしか雨はやんで、薄日が射している。
 
市川本町で「ぢゃ御免ください」とお花のご婦人方が降り、入れ替わりに「どうも」と、小旅行風のおば様2人が乗り込む。若い女性とは一緒にならない。
 のどかで平凡な地方都市の風景の中で、点在する柿、コスモス、彼岸花の鮮やかさに目を奪われながら、13時15分甲府着。御殿場線と身延線を乗り終えて、ウォーミングアップは終了。明日はいよいよ飯田線制覇をめざす。



(C)Takashi Kishi 2011
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