飯田線・雨のち晴れ 第3回 (Jan.9,2009) |
■御殿場線・前篇 (大磯 - 国府津 - 御殿場) 大磯8時25分発の小田原行きで今日の行程をスタートする。相模湾から昇った太陽のやわらかな光を浴びながら湘南路を快走して、8時34分に国府津駅2番線へ到着。向かいの3番線には、すでに8時40分発の御殿場線沼津行きが手ぐすねを引いて待ち構えている。ワンマン仕様の313系2両編成で、オレンジの帯が巻かれたJR東海の車両だ。少しばかり首都圏から離れたな、という気になる。 この3番線は御殿場線のメインプラットホームであり、発車した列車は渡り線を通らずにそのまま御殿場線の本線へと進入する。かつてこのルートが東海道“本線”であったことを彷彿させる配線だとひとり悦に入ったが、1〜5番線の中央に位置する3番線に陣取った方が、上下線とも東京方面との直通がスムーズなためでもあるだろう。 乗り継ぎが5分余しかないので、3面5線の広い構内をゆっくり観察する暇もなく急いで乗り移る。なんとか1両目に座席を確保したが、車内は中高年のハイカーや、運動部の練習試合に向かうらしいジャージ姿の高校生の一団などで盛況だ。相当の立客がひしめいていながら、どことなく週末ののどかさが漂うのはこうした客層のせいか。 国府津を定刻に発車。いよいよ“M字開脚作戦”の本格的なスタートで、まずは“片足”のつま先部分からそろりそろりと這い登って行く。ややこしいたとえ方で申し訳ないけれど。 東海道の上り本線を高架でまたいで北向きへ変針し、しばらくは足柄平野を酒匂川に沿ってひたすら直進する。対岸には、順光に映える箱根山系を背景に、昨日演奏会を行った南足柄市の町並みが広がっている。 2両とはいえ、いや2両だからこそか、ワンマンカーの運転士は忙しい。中高年のハイカーが降りがけに登山口の在り処を尋ね、ジャージ姿の高校生たちは一人一人が小銭を出しては個別に清算していく。 その都度2分、3分と遅れが蓄積するので、「引率の顧問が同乗してまとめて払えばいいのに、自分だけさっさとマイカーで現地へ行ってしまうからこんなことになるのだ」と、同行のM君は怒っている。現役高校教師ならではの観察眼ではあるが、運転士はあせる様子もなくいちいち丁寧に応対している。国府津から7つ目の谷峨では特に降車客が多く、遅れは8分になった。 |
名にし負う山越えの御殿場線に初乗りというので、私はある小道具を仕込んできた。手作りのダイヤグラムと勾配表である。グラフの横軸には国府津から沼津までの各駅ごとの距離をとり、左の縦軸は標高、右は時刻になっていて、ダイヤと勾配の2種の折れ線グラフが一葉に収められている。 ちなみに各駅の標高は公式なデータが入手できなかったので、2万5千分の一地形図からおおよその数値を逐一読み取ってはグラフ上にプロットしていった。大いに手間はかかったが、出発前の楽しい作業だ。 |
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こうして勾配表を眺めてみると、御殿場線のたどる地形の特徴が如実に表れていて面白い。標高20m足らずの国府津を出て、御殿場駅構内で最高地点の約460mに達するとすぐに下りに転じ、終着の沼津は10mに満たない。国府津〜御殿場間はひたすら登り、御殿場〜沼津間はひたすら下るから、グラフは見事な逆V字を描いている。後述する身延線とは大きな違いがある。 また、国府津からおよそ100m登った山北を境にして、勾配は右肩上がりの度を増している。御殿場〜山北間の平均勾配は約6パーミル(1000m進む間に6m登る)だが、山北〜御殿場間では約17パーミルの登りが20km近くにわたって続く。蒸機の時代にこれだけ登りが連続しては、いかにも苦しいはずである。 |
資料と車窓を忙しく見比べるうちに、列車の沿う流れは「鮎沢川」とその名を変えた。このあたりは線路の付け替えによる旧トンネルや橋台の跡などで有名な区間だ。戦時中に鉄材供出のため線路をはがされた“恨みの複線跡”も並行しているはずだが、車内が混雑しているので座席を離れることもできず、見知らぬ相客の肩越しに窓外をちらりと見やるだけである。運転室の貫通扉の小さな窓越しには、藍とも茶ともつかない無骨な色をした富士山頂が右へ左へと見え隠れしている。 「金太郎誕生の町 小山町」の駅前看板があるのが駿河小山で、昨日の大雄山駅前に続いて、再び金太郎の名が登場した。標高は約160mで、「M字開脚」ルートの、ほぼひざっ小僧のてっぺんあたりになる。 「駿河」を冠した駅名の通りここから静岡県に入り、富士の裾野と箱根山の間に刻まれた谷筋をさらに200m駆け上がって、9時32分御殿場到着。いまだにおよそ6分の遅れを引きずっている。 |
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(C)Takashi Kishi 2009 |