国鉄三国線旧線と金津駅分岐跡 (Aug.23,2011)  

鉄分の多い男の妻の悲劇

 2011年8月19日(金)・20日(土)、夏季休暇を利用して家内と北陸へドライブに出かけた折、かねてから気になっていた国鉄三国線の芦原温泉(旧・金津)駅からの分岐点を見に行くことにした。えちぜん鉄道のあわら湯のまち駅周辺から西側の三国・東尋坊方面は、友人のM君と6年前に探索している(「越前国徘徊録・三国篇」ご参照)。今回は残る東側を芦原温泉駅方面へたどってみようというわけである。
 初日にあわら温泉で一泊し、翌20日は朝から名勝・東尋坊へ。ハンドルを握る道すがら、「この道路は昔の国鉄の線路跡でね・・・、」だの、「この踏切のそばに橋脚が残っているでしょ」だの、私は延々と講釈を垂れた。家内は精一杯、「へえーぇ」と反応を示してくれる。鉄分のまったくない家内をここまで慣らすのに、結婚後24年かかっている。
 午後からは、北陸自動車道を経由して、携帯電話の「お父さん犬」のCMロケ地にもなった、戦国武将・浅井家一族の遺構「一乗谷」へ向かった。最寄の北陸自動車道・金津ICまでの経路としては、国鉄三国線跡の道路を利用するのが最も便利である。
 今度は家内がハンドルを握る。私は東尋坊のレストハウスで、サザエの焼き物を肴にビールを飲んでしまった。おかげで助手席から自由に写真を撮ることができたが、「写真撮るからちょっとここで停めといて」と家内に何度注文をつけたことか。撮影を終えて車に戻るたびに「良く寝たわ」と彼女は言った。


 【国鉄三国線跡】 (あわら湯のまち〜三国間は記載を省略)


  えちぜん鉄道三国芦原線の三国駅東側から、現在の線路に並行する道路を東進する。1911(M44)年、金津〜三国間に鉄道院が三国線を開業させた線路跡である(地図が大きくなってしまうので、上図には載せていない)。ここは今朝、宿を出て東尋坊へ向かうときに一度逆方向に走っている。
 
【A地点】
 あわら湯のまち駅前から東へおよそ300m、えちぜん鉄道が南へ分岐する地点までは、友人のM君と徒歩で探索している(「越前国徘徊録・芦原篇」ご参照)
 あれから6年も経ったかと、一度来た場所を見るたびに時の流れを反芻してしまう。きりがないのでいい加減にしておこうとは思うのだが。
【B地点】
 1km余は気持ちのよい直線道路が続く。この区間では当時線路と道路が並走しており、廃線以前の時代の空中写真を見ると、今走っている車線が旧線跡で、対向車線の位置が道路だったように思われる。
【C地点】
 ゆるやかに左へカーブすると、前方に丘陵地が見えてくる。
【D地点】
 丘陵地を切り通しで進み、交差道路をアンダークロス。
【E地点】
 金津IC方面へ左折する交差点(前方の赤信号)の一本手前で路肩に停車(半分見えている白いのがマイカー)。車内に家内を待たせ、ここから徒歩で撮影に向かう。


 【E地点から芦原温泉駅までの線路跡パノラマ写真】 高架道路上のF地点から撮影。
    (見たいところをクリックすると別窓で拡大が出ます。左右6分割)
 車を止めたE地点から先、旧線跡は一部現在の高架道路用地に転用されたが、そこから先は芦原温泉駅の構内まで、緑に覆われた築堤が連続して姿を残している。

 川をわたる部分は橋台が存在する。現在は緑に覆われてコンクリートの地肌は見えないが、凹凸の形から判別できる。
 なお他のサイト様での訪問記録では、冬場で草が枯れ、コンクリートが露出した写真などもレポートされている。

 訪問前の想像では、工場や宅地などに転用されているのではないかと思っていたが、用地はそのまま残され、また周囲も畑が広がる開けた土地であり、簡単に現状を確認することができた。
【G地点】
高架道路の取り付き部から築堤へ続く部分は、一部側道を通すために切り崩されたようだ。
【H地点】
側道へ進入すると切り通しになっている。
【H地点】
上写真付近を高架道路上から見たところ。右奥方向の芦原温泉駅へ伸びる築堤の高さは1.5m程度か。
【I地点】
 水路を渡り、弧を描いて駅構内へ吸い込まれていく築堤。
 「工」マーク入りの境界標識も設置されている
【I地点】
 近寄ってみると、築堤を囲む鉄柵は古レールが使われていた。
【H地点】
 北陸本線との合流地点一帯は畑の広がる私有地。これ以上の立ち入りは遠慮したが、往時の面影をとどめつつ安らかに眠っている築堤の姿を見て、私は満足して車に戻った。
                                    (おしまい)
(C)Takashi Kishi 2011
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