越前国徘徊録・芦原編 (May.21,2006) | |
テキストのみの一括ダウンロードはこちら |
■旧・芦原駅周辺の線路事情 2005年3月6日(日)。2泊3日をかけて福井周辺を徘徊した、その最終日である。 昨日は往年の三国芦原電鉄 三国〜東尋坊口の廃線跡を探索(越前国徘徊録・三国編ご参照)した後、えちぜん鉄道の三国港からあわら湯のまちへ移動して、芦原温泉のS荘に投宿した。天下に聞こえた北陸の歓楽地・芦原温泉で一泊とは通常の廃鉄旅行にあるまじき贅沢だが、行程の初日は福井駅前のビジネスホテル泊だったので、せめて2泊目は温泉らしいところで泊まろうという趣向である。 同行の友人M君と差し向かいで、男二人きりの夕餉の膳。湯上りに丹前姿でマアマアなどとビールを注ぎあっていると、お互いに口には出さずとも、なにやら似つかわしくないのが察せられて落ち着かない。20年以上も前、彼の下宿に転がり込んでは雑魚寝していた頃の方がお互いにお似合いだと思ってはいるのだが、年月だけはお構いなしに過ぎている。 今日の行程は、東尋坊観光の後でえちぜん鉄道と福井鉄道福武線を乗り継ぎ、武生に出てからJRで大阪方面へ戻る。「駅まで車でお送りしますが」という宿の申し出を辞して、あわら湯のまち駅まで10分ほどの道のりをぶらぶらと下っていく。 旅先の朝の空気は、いつも清清しさとけだるさが入り混じったような匂いがする。芭蕉の「奥の細道」にある「過客」という言葉そのままに、自らが根無し草のように昨日はあそこ、今日はここと、過ぎ去り移ろい続ける旅の空であればこそ、新しい一日が始まったさわやかな朝の空気の中にも、倦んだような虚無感を嗅ぎ取ってしまうのだろう。 東尋坊へ向かうバスが駅前から出るまで30分余ある。この時間を利用して、駅周辺の配線状況の探索を行う。これがこの稿の主題である。 右は1929年(S4年)1月31日の図で、当時、国鉄三国線は北陸本線の金津(現・芦原温泉)から、現在のえちぜん鉄道・三国港間を営業していた。一方、三国芦原電鉄(以下「電鉄」)は1928年(S3)12月30日に福井方面から芦原まで開通したあと、そのおよそ1ヶ月後に三国町(後の電車三国)まで延伸した。芦原〜三国町間は線路の乗り入れではなく別線で、その並走状態は1944年(S19)10月11日の三国線休止まで続いた。その時代の名残を垣間見ていくことにする。 下に、現在のあわら湯のまち駅付近の見取り図を示す。黒線が現存するえちぜん鉄道の配線で、赤線が旧・国鉄三国線の推定経路だが、旧国鉄線の駅構内の側線配置に関しては確かな資料を持っていないので、まったくの私の推測である。 しかし、えちぜん鉄道の配線は構内で不自然に下(南)側へふくらんでいる。これは、かつて構内に広がっていた国鉄線の側線に沿う形で後から三国芦原電鉄の駅が設置されたことの名残だと見て間違いないだろう。 |
ここからは、あわら湯の町駅から西側の様子をご紹介。写真は、この日の東尋坊観光のあとバスで三国港に出てえちぜん鉄道に乗車し、その車内から撮影したものである。 |
左は三国神社〜水居駅間での、国鉄三国線(現在の道路)と三国芦原鉄道の並走区間。直線区間が長いので見ごたえがある。 この先三国駅の手前で、休止した国鉄線の路盤に電鉄線が乗り入れるわけだが、その様子は別項(越前国徘徊録・三国編第1回)でご紹介の通り。 (写真E)はあわら湯の町駅に進入するところ。並走してきた国鉄線もそのまま、まっすぐ駅構内へと入っていったはずだ。 (写真F)は駅構内側から見たところ。現存する電鉄線が大きく左(南)側へ逃げる形の線形になっており、かつて国鉄の側線が枝分かれして構内へ広がってきていたことが想像できる。 これで駅周辺の探索は終わり。国鉄線の遺構はほとんどなかったが、線形が道路としてきれいに残っていて往時をしのばせるには十分だった。 |
|
(C)Takashi Kishi 2006 |