山陰本線・駆けある記 @  (Sept.19,2004)  途中駅で仮眠するキハたち。
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夜行急行「だいせん」ラストラン

 2004年10月16日の新ダイヤで、夜行急行「だいせん」は1968年の登場以来36年の歴史に幕を引くことになった。これで山陰路を目指す夜行列車は特急「出雲」のみとなるが、京都発が午前3時台とあっては大阪に住む私といえども乗るに乗れない。これでは実質的に山陰夜行は消滅したに等しい。
  ブルートレインもいいけれど、手軽に乗れる夜行の急行や鈍行は有り難い存在だった。関西発着の夜行としては今でも「きたぐに」「銀河」「ちくま」が残っているが、紀勢本線の「はやたま」、山陰本線のその名も「山陰」、そして福知山線経由の「だいせん」と、思い出のある夜行が姿を消していくのは寂しいことだ。

 9月18日に発売されたばかりの時刻表10月号で福知山線大阪口のページを開くと、「だいせん」の記載は当然のことだがぽっかりと抜け落ちていて、もう元には戻れませんと廃止の事実を突きつけられたような気になる。それまでページを上下に貫いていた、優等列車を示す太字の一列が消え去り、区間運転の普通列車が細字で記載されるだけになってしまったので、やけにページ全体が白っぽく見える。
 一方山陰本線の鳥取〜米子間では、4時台に出発して6時過ぎに到着する「とっとりライナー」が設定されて、「だいせん」が果たしてきた早朝のローカル輸送の役割を確保している。大阪からも、これまでの夜行のスジを活用して、多客期には臨時の夜行を運転してもらいたいものだ。


 「だいせん」の廃止まであと1ヵ月となった土曜の夜、大阪駅の「みどりの窓口」で人影もまばらなカウンターに立つ。
 申込用紙に記入もせず、窓口氏に「乗車券が欲しいんですが。福知山線経由で、門司港まで」と唐突に告げると、氏はハイといってマルスに向った。指定券は前日までに職場の最寄駅で押さえてあった。
 時刻表の路線図を開いて経由地を確かめながらの発券作業は、思いの外時間がかかった。打ち出された券面に記載された乗車区間は「大阪から門司港行き」ではなく、「大阪市内〜北九州市内」であった。乗車距離が201km以上の大都市圏相互間だとこの様な表記になることは時刻表の愛読者ならご存知のことだが、私はそうか、と今さらのように気がついた。あらためてこれからの道のりの遠さを思った。

 高架下の飲食街で夜食を済ませ、23時に改札をくぐって4番ホームに上がる。すでに三々五々と乗客が集まっていて、線路を挟んだ5番ホームは神戸方面への遅い退勤客で鈴なりだが、こちらのホームは明らかに時間の流れ方が違う。 
「だいせん」入線(大阪) ※クリックで拡大。  同07分、パノラマカーを先頭にキハ65系2両の「だいせん」が入線。同15分の発車まで、ホームを慌しく移動して写真を撮ってから乗り込む。
 1号車指定席はパラパラと10名程度、2号車自由席は案外賑わっていて20名程度の客があったが、トータルの乗車率は20%を切るだろう。鉄道ファンらしき、廃止間際の“駆け込み乗車”組は案外少ないようだ。
 かく言う私もその“駆け込み乗車”組ではない。本来ならば勤続20年のご褒美にしっかり休みを取って、朝一番に京都駅を出発して山陰本線を乗り通すつもりだったのだが、思い果たせず休みは取れず、週末にからめての強行軍となったために夜行を利用せざるを得なくなったのであった。「だいせん」の廃止を知ったのは指定券を買ってから後のことで、この列車への思い入れが強い割りには、我ながら薄情なことである。

 1号車7番A席に着席してほどなく発車。しばらくは一夜の居住環境の整備のために忙しく、ゆっくり外を眺める暇がない。持参した空気枕を膨らませ、布団代わりのタオルケットを取り出し、前席の背もたれからテーブルを引き出してワンカップを並べている間に、列車は淀川を渡り、尼崎から福知山線に入って宝塚に着いた。
 ここから先は、武田尾かいわいの景勝地をトンネルで掘り抜いた新線区間で、軽快なエンジン音で快調に飛ばす。座席は特急と同等のリクライニングシートで居心地は良いのだが、タネ車の足回りの古さはどうしようもなく、ガタガタ、ギシギシと賑やかに揺れる。床面の防音も優等列車としての構造ではないらしく、ジョイント音が直接響いてくる。新線区間が終って道場駅を過ぎると車速がぐっと落ちるが、揺れ具合はやはり変わらない。ワンカップを開けて“柿の種”をつまみ、明日の下関界隈の探索資料に目を通しながら、夜汽車の風情を味わう。
 車内検札が来たので、北九州市内行きの乗車券と倉吉までの急行券を示す。車掌が「終点まで行かれますよね?」と念を押す。「だいせん」は倉吉までが急行701Dで、その先終着の米子までは快速扱いとなり列車番号も3731Dに変わる。

 私のいる1号車は席番でいう4番までがパノラマ席になっていて、映画館のように後ろへ行くほど階段状に床面が高くなっている。5番以降の車室との間には仕切りの壁があって、後方の車室からパノラマ席に入る時には、この仕切りの壁のところでいったん階段を上がって入室していくことになる。ただし“貫通路”にあたる部分にはドアはないので、後方の車室からでも通路側へ顔を出せば前方の景色を垣間見ることができる。
 ほとんど空席だったのでちょっと座ってみたが、前方の視界をさえぎるものがない分、ボックスにおさまったという良い意味での閉塞感に乏しく、どこか落ち着かない。パノラマ席だからといって別料金を取られるわけでもないので、指定券を取るときに1番から4番までを申し込めば良いのだが、ほとんど明るい時間帯に走ることのない夜行列車なので、パノラマ席であることにあまり意味はないような気がする。
 「ただいまからマイクでのご案内は控えさせていただきます」とお休み放送が流れ、三田、篠山口と大阪からの通勤圏に停車していくうちに日付けが変わり、0時56分福知山に到着。ここで24分停まる。

 夜行に乗るとなぜか元気になって目が冴える。寝台車と違って車内の減光もされないので、安眠のため今晩2本目のワンカップを開けてから空気枕を隣席に据えて横になる。
 しかし、このまま朝まで寝ているわけにはいかない。2時30分、携帯電話のアラームがブルブルと動作して豊岡で起きる。駅を出外れると間もなく列車は円山川の流れに寄り沿い、窓外は灯かりも無い闇となるが、その対岸には玄武洞の柱状節理の絶壁が口をあけているはずである。やがて見覚えのある玄武洞駅のホームが淡い照明の中を過ぎ去って行った。昨年1月のルポの時以来の再会となる。
 次の見どころは3時20分ごろ通過の餘部鉄橋なのだが、これはいつの間にか熟睡してしまい見逃した。以降、浜坂(3時32分)、鳥取(4時16分)と停車のたびに目を醒ます。トイレに立ったついでに、自由席の2号車の様子をのぞく。大阪駅では20人ほど乗ったはずだが、すでに半数以上が姿を消していた。

 4時45分、「おはようございます。列車はただいま定刻で運転しております。間もなく倉吉に着きます・・・」と放送があり、外はまだ真っ暗だが車内には一足早く朝がきた。4時52分の倉吉を出ると、「ご乗車有難うございます。この列車は、快速列車の米子行きです・・・」と放送が入る。「急行・だいせん」の旅は終着を待たずして終わったのだ。
 5時台に入ると、快速とはいえほとんど1つおきくらいの駅にこまめに停車して、米子圏への一番列車としての機能を果たす。何か行事でもあるのか、ひと駅停まるごとに中年女性が乗り込んでは先客と「あ、こっちこっち」と手を振り合って合流し、さっそくおにぎりの包みを開いて食べ始める。ひそやかながらも賑やかなおしゃべりは、中国地方独特のやわらかいイントネーションのせいか不思議とうるささは感じさせず、むしろ夜を徹して走った車内の澱みがちな空気に活気を与えているようでほほえましい。一晩乗ってきた乗客たちはまだ明け切らない夜をひきずっているが、早朝に乗ってきた客にとっては、すでに清々しく活気に満ちた、新しい一日が始まっているのだろう。

薄明(赤碕〜御来屋) ※クリックで拡大 列車名の語源となった大山の山すそが朝焼けの中にシルエットとなって浮かび、いよいよ終着・米子(5時42分着)が近づいてきた。山陰本線で最古の駅舎が現存するという御来屋を過ぎ、伯耆大山では電車特急「やくも」が走る陰陽連絡のメインルート・伯備線が合流して、この先西出雲までは電化区間になる。
 空が明け白み、沿線のビルの数が増してきて、米子到着を告げるアナウンスが流れる。
 「・・・本日はJR西日本・だいせん号にご乗車頂きまして有難うございました。またのご利用をお待ち致しております。」
 廃止の前日になっても、このアナウンスは流れるのだろうか。“またのご利用”が可能なのは10月15日までだが、私にとってはこれが「だいせん」のラストランである。


(C)Takashi Kishi 2004
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