■野田橋〜蒲生間 今回歩いた旧線区間(野田橋〜土居)のうち、蒲生は1932(昭7)年に、開通時の場所からやや西寄りに移転した。翌1933(昭8)年に蒲生〜土居間は高架複々線となった。(野田橋〜蒲生間は地平の旧線のまま) のち1949(昭24)年に蒲生は京橋と改称され、さらに1970(昭45)年、天満橋〜京橋間の高架複々線が完成して現在の姿となった。 なお野田橋は1955(昭30)年に片町と改称され、高架完成時に廃止された。 また京橋も高架完成時にJR大阪環状線を挟んで西側の現在地へ移転した。 |
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@ | 探訪は、旧・片町駅前からスタート。頭端式、地平ホームのターミナルとしてユニークな存在だった同駅は、1895(明28)年に浪速鉄道によって開業した歴史ある駅ですが、1997年のJR東西線 京橋〜尼崎間の開業とともに線路は地下化され、片町駅も廃止に。 駅舎の跡地は一時JRバスの車庫となっていたようですが、現在は洗車場に。またホームの跡地も駐車場とお決まりのパターンですが、細長く伸びる敷地にはいまだに鉄道駅の残り香がぷんぷんと。 |
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A | 京阪の高架が市道をオーバークロスする地点から京橋方向。 「地形図でたどる鉄道史・西日本編」63ページの上段に載っている写真(京阪と大阪市電の平面交差)の地点にあたる場所。京橋〜天満橋間の高架複々線工事が完了した1970年まで平面交差は続いたようです。 写真左奥で信号待ちをする車列のあたりがかつての野田橋駅ですが、開通当初の線路跡は現在は高架の下敷きになってしまっています。 |
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B | 野田橋駅を過ぎると下り勾配に。ここから左へと旧線が分岐しますが、左手にある幼稚園の敷地が、いかにもそれっぽいカーブを描いているのがウレシイ。広い歩道と緑地帯が、かつての線路敷を髣髴させます。 どうでもいいけどこの一帯はかつて私が営業マンだったころの営業コースではないか。電車道の跡とは知らずにこの道をよく車で走ったっけ。 |
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《写真をクリックすると拡大》 | |||
C | 斜めに切れ込んだ線路跡は「京橋コムズガーデン」に突き当たっていったん中断。ここは地下街の上層が吹き抜けの公園になっていて、売上も上がらずよくヒマをつぶした場所(^^:) ややこしくなるので地図には描いていませんが大阪市営地下鉄の鶴見緑地線「京橋」駅もちょうどこの真下にあります。 突き当たり地点から来た道を振りかえるとこんな風景が。ボロいアパートが電車道の時代を感じさせていい感じ。 |
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D | 「京橋コムズガーデン」の一角を突っ切って進むと再び電車道に突入。路面のタイル模様が、かつての線路跡を意識したデザインに見えるのは意識過剰? なお、道路沿いのビルの形状が微妙なカーブを描いているのにぜひご注目を。 昭和44年末に発行された「京阪電鉄新発足20周年」誌には、高架新駅完成間近の京橋かいわいの空撮写真が掲載されていて、それを見るとこの一帯もまだ高層ビルは少なく、公園や住宅雑居ビルが混在していました。 それにしても、さっきまでぽかぽかしていたのに、急に真っ暗になってきた。なんかいやな予感・・・ |
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E | ビルの間を抜けると京橋駅前の広場にでます。JR環状線をアンダークロスして繁華街に突っ込んでいきます。 広場に面したビルの上階から眺めるとこんな感じ。(写真撮るためにわざわざ上ったのよ) |
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F | 繁華街に突っ込むとアーケードの飲み屋街。昼間来てもだーれも歩いてません! ちょうど写真のこのあたり、1932(昭7)年に移転してきた蒲生駅があった付近で、1949(昭24)年には京橋と改称され、1970年に現在の高架新駅が開通するまで使われていました。 私は1966年まで沿線の寝屋川市に住んでいたので、子供の頃この場所を電車で通ったこともあったわけだ・・・ 「関西の鉄道 No.17」(1987年、関西鉄道研究会 発行)に、昭和30年代当時のここ京橋駅の写真が掲載されていますが、相対式ホーム2面のみで退避線もありません。JRとの接続で乗降客も多く、ラッシュ時には2分間隔で電車が入ってくるので、自動閉塞が赤でも手旗信号で進入させ、列車間隔をぎりぎりまで詰めていたそうです。 時代はさかのぼって1933(昭8)年にここ蒲生〜土居間の高架複々線が完成したわけですが、ちょうど写真のこの場所あたりから高架への上り勾配が始まっていたようです。 |
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G | アーケードの終点で市道に突き当たり電車道はいったん消滅。 初代の蒲生駅は、ちょうど写真に写っている市道のあたりらしく、1932(昭7)年に行われた国道1号線の改修時に、上の写真Fの場所へ移転しました。 ところで・・・。 「アーケードを抜けるとそこは雪国だった」。ミゾレ混じりの横殴りの雨でっせ(写真じゃわからんけど)。聞いてないよぉ! そこで私は。 |
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H | 蒲生駅跡に建つ娯楽の殿堂・扶桑会館、またの名を「ボウルメイト京橋」(つまりボウリング場)へと乗り込んだのでした。 天候の回復までしばしここで休憩。たったひとりでたった1ゲーム、あーでもないこーでもないとフォームを試しつつポイポイ投げたあげく、自己ワーストをマーク。スコアは恥ずかしいので書けませんが、末広がりで縁起のいい数字が2つ並んでました。。 しかし!ただ遊んでいたわけではありません。ここに立ち寄ったのは予定の行動、ある重大なミッションがあったのです。 |
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(C)Takashi Kishi 2004 |
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第2章「蒲生の巻」 |