五能線の旅8(03/01/05)

■ 第8章

 弘前から乗ってきたこの2826D列車、実は深浦という駅にとっては、弘前からの「一番列車」である。弘前発の上りは朝6時台に2本あるが、いずれも鰺ヶ沢止まりの区間運転で、深浦には達しない。弘前からの空気を運んできた一番列車、だからというわけでもないだろうが、この列車の到着によってその場の空気が華やいだようにも見える。
 華やいでいるのは、地味な生活臭がしないことの裏返しでもある。実際、深浦まで乗ってきた客は、弘前からずっと一緒だった新婚風の若夫婦、あるいはフルムーン風の熟年夫婦、はたまたいかにもマニア風の若者、といった、すでに顔なじみの面々ばかりで、なにやら「五能線体験ツアーご一行」といった風情になってきた。

 2826Dは、到着した上りホームでそのまま1時間を過ごす。何しろ次の上り列車の到着まで3時間あるから、本線にどっかりと居座っていても平気なものである。この1時間を利用して、深浦の街並みを探索する。特にお目当てといったものもなく、日本海の風に吹かれての、きままなお散歩である。
 駅前の国道101号線が町のメインストリートで、深浦町の主要な施設が、駅を中心とした徒歩5分以内の国道沿いに集中している。農協、町役場、消防署、銀行、商店街、ガソリンスタンド、コンビニ、etc.とまあひととおりそろっている。
 駅の南側は、円形に入り組んだ入江になっていて深浦港がある。北前船でにぎわった、由緒ある港町だ。(余談ながら、この町には高校もあるのだが、高校野球の県大会で、相手に100点以上取られてシャットアウト負けを喫した、とマスコミ種になっていた)

 適当な店で食事もしたいが、開いているめぼしい店もなく、国道沿いの探索は止めにして海岸線に出、堤防の上を歩く。雪が風にあおられて舞っているが、日差しは明るい。テトラポットの上には無数のカモメが日光浴をしており、「今年もあったかいな」とばかりにアーアーと鳴きあっている。横なぐりの猛吹雪の中で日本海の荒波を、という勝手な期待は見事に裏切られた。
 前方に、海に突き出した岩礁があり、先端には赤い社が設けられているのが見える。地図には「大岩」と名がある。遊歩道を伝って岩礁の先端まで歩き、切り立った崖の頂上へ登る。高さは20m程もあるだろうか。頂のみ白い山並みを遠景に、切れ込んだ深浦の入り江を一望する。北前船の出入りした往時が偲ばれる。

 これ以上足を伸ばしても何もないので、国道伝いに駅前へ戻る。まだ先の旅路は長く、食事のことを真剣に心配しなければならない。
 まず酒屋に入る。ジャージ姿の大前研一が現れたとおもったら、酒屋の主人だった。愛想も元気もいい人である。

「何をお探しですか?」
「ワンカップあります?」
「それならこちらです。聞いていただいたら早いですよ。
 ・・・今日はいいお天気なんでありがたいです」
「吹雪かと思って来ましたが」
「それなら1月の中頃から2月ですね。でも今年はぬくいです」
「この辺は釣りにもいいんでしょうね」
「そりゃもう。チヌとかマスとか、いろいろ釣れます」

 話好きの酒屋を辞して、隣のコンビニで牛丼弁当を買い、改札をくぐる。おとなしく待っていた列車に再び乗り込み、発車を待ちながら弁当を頬張っていると、車掌がオレンジカードを売りにきた。「リゾートしらかみ」号をあしらったデザイン。深浦は「夕焼け海岸」の周遊指定地であり、駅構内には「ようこそ五能線へ」の大段幕も掲げられている。正月早々、東北のローカル線巡りという客も、決して珍しくはないようだ。

 やがて、あちこち散っていたおなじみの乗客達も戻ってきて、13時29分、列車は東能代を目指して発車した。スジこそ326Dに改まってはいるものの、車両も、乗務員もそして乗っている客達も、何も変わっていない。五能線深浦駅、遠足バスがお昼ごはんでちょっと一服、といった趣なのだった。

 深浦を発車すると、いくつかのトンネルが連続し、深浦湾に沿ってぐるりと回りながら高台へと登っていく。登り詰めると「鉄道防雪林」の標識がある松林が寄り添い、その向こうは崖、そして海になる。横磯、艫作(へなし)と駅が続き、その間ずっと高いところを行く。手元の地図にも、崖の記号が連続している。
 列車は「早く着いたって仕方ないんです」といわんばかりに、時速40km程度でとろとろと走る。その気になればもっと速く走れるだろうに。松林とクマ笹の向こうに海がなければ、小海線を走っているようだ。雲間から漏れる午後の日差しが海面に反射する。
 深浦町から岩崎村に入って陸奥沢辺。1200m級の白神山地を左に見ながら十二湖、陸奥黒崎、大間越と走って、秋田県に入った。はるか右手には、男鹿半島が島のように浮かんでいる。

 県境を越えると下りになった。コトトン、コトトンと気持ちよく下って14時56分、岩館に着く。交換する下り列車もないのに30分停車する。深浦がお昼ごはんとすれば、岩館はトイレ休憩、といったところか。
 動かない列車は退屈だ。誰彼となくホームへ降り、三々五々風景などながめている。改札を出て、駅前の立て看板を読んでみると「大正15年12月7日開設」とある。この歴史のある駅をあずかるのは、金筋2本の帽子をかぶった伊藤駅長(名札を見たので)。待合室で地元のおばさんと、「お孫さん帰ってきたの?今年もよろしくね」などと会話がはずんでいる。

 急いでいる人など誰もいない。お互い見ず知らずではあるけれど、同じ列車に身をまかせながら、ゆっくりと流れる旅の時間を共有しているようだ。カメラのシャッターを頼まれたのがきっかけで、そんな相客と話をしてみた。東京から来たという、熟年夫婦2組の仲良しグループである。
 ご主人の一人は茶色のハンティング帽と皮ジャンを粋に着こなし、口髭をたくわえたナイスミドル。マイク真木のようだ。子供も独立して悠々自適、機会を作ってはこのグループであちこちと旅をしているという。五能線には3年前にも来たが、その時も雪は少なかったそう。今回は津軽鉄道に乗っての帰路だとのこと。なかなかやってくれます。
 奥さんも「大阪からですって?五能線に乗りに来たの?ああやっぱり!」とすっかり鉄ちゃんのノリで、夫婦お互いに旅の相棒として申分なし。車窓から外ばっかり見ている、と平素カミさんからお叱りを受けているこちらとしては、うらやましい限りである。

 14時56分に岩館を発車。97年10月に開業したばかりの「あきた白神」、続く滝ノ間、八森と走ると日本海とも別れ、東八森を過ぎるといよいよ能代市域に入る。米代川を渡って東へ大きく回りこみ、15時43分、東能代に到着した。弘前を出てから5時間41分、五能線の旅はあっけなく終わった。
 目的を達した感傷にひたっていたいところだが、我ながら良くできたスケジュール表は「かもしか2号」に早く乗れ、と私を急かす。指定席、自由席とも満員で、八郎潟までは通路に立ち、「こまち」のたむろする秋田駅に到着すると雪はなく、駅前から空港バスに乗り込む。
 ジェット機は夜の闇の中を、昨夜「日本海」でたどったルートの真上をなぞるように、ひと飛びで私を伊丹空港まで連れ帰った。出発前に危篤の伝えられた叔父は翌1月3日、癌のため故人となった。



■ あとがき

 初めて訪れた五能線は、日常離れした風景の中をひたすらキハに揺られるという、汽車旅実践派の方には絶対おすすめ、看板(何の?)にいつわりなしの線区であった。また、数こそ多くはないものの根強い観光客の存在と、それに応えようとする地元の姿勢には心強いものがあった。

 旅行中は真冬ながら穏やかな気候だったこともあり、暗い印象は少なく、これは本州北辺の真冬のローカル線という先入観からすれば、嬉しい誤算となった。これからも、五能線が今の姿のままで健在であることを祈ってやまない。

1999年3月

      筆 者

※本文中の列車名・時刻等は1998年1月現在のものです。

〔本稿は1998年1月から1999年3月にかけ、H.Kumaさんのホームページ「RAIL & BIKE」
(http://hkuma.com/)
にて、不定期連載として発表したものです〕



※2003年1月5日 自己サイトへ再掲。