五能線の旅(第3回)(00/09/28)

第3章

 発車してしばらくの間、通路側窓際の腰掛けに陣取ったまま、窓外の景色を眺める。
淀川の鉄橋を渡り、新大阪から東淀川、吹田、岸辺、千里丘・・・と見慣れた風景が流れていくが、自分は今日は普段の国電でなく、寝台特急の客だ。ホームの乗客から浴びる視線も嬉しい。
 京都を発車すると、一夜の宿の「整備」にかかる。身軽な一人旅で、荷物が多いわけではないが、手製のダイヤグラム表や時刻表、時計代わりの携帯電話、メモ帳やボールペンなどはいつでも手の届くところに置いておきたい。あちらでもない、こちらでもないとやっているうちに、ガクンと左に振れる感触がして、東海道本線から湖西線に入ったことが知れる。

 夜行列車の醍醐味のひとつは、おなじボックスの相客やいかに、という点にある。例えば、4人1ボックスのうち、自分以外の残る3人が賑やかなグループだったりすると、確実に住み心地は低下する。こういう場合、その話の輪の中に飛び込んで一緒に盛り上がり、お互いになじんだところで、あとは自分のしたいことを好き勝手に始めてしまうことにしている。これで無用な気兼ねはしなくてすむが、ひっそりとした夜行列車で一夜の孤独を味わいたい、と期待してきたこちらとしては、やはり寝台料金を損した様な気になる。
 逆に得した気分になれるのは、1対1の触れ合いに出会った時だ。初めて高千穂を尋ねた際に乗った「彗星」では、子供へのお土産を携え、単身赴任先から家族のもとへ戻るという、良きお父さんが相客だった。出雲へ向かう「だいせん」では、これから松江へ出張だというサラリーマン氏と、束の間だが印象深い会話を交した。こういう出会いがあると、それぞれの人生を乗せて夜行列車はひた走っている、という実感が湧いてきて、乗ってよかった、と思う。

 さて今宵の相客だが、若い女性が、向かいの13番下段に乗っている。上段はすべて空席で、このボックスは私と二人きりである。これこそ最上、と言いたいけれど、実はそうではない。私はあやしい者ではありませんよ(ウソつけ、の声あり)、ということを知ってもらうためにも、何等かのパフォーマンスを展開したいのだが、こちらからやたらと話しかけるわけにもいかず、ほとんどの場合、ひたすら沈黙が支配する。
 トイレなどで席を立つ時に会釈くらいはするし、その時の相手のノリ次第では、非常に楽しい会話に発展する可能性もあるが、最初からそういうことを期待して夜行列車に乗り込んでいるわけではない。もっともこの女性、大阪駅での発車間際まで、見送りのちょっとヤンキーっぽい彼氏とホームで睦まじくしていたから、「そういうこと」は始めから期待できないであろうことがわかっており、やっぱり何か張り合いがない。

 ところで自分自身はどうかといえば、恐らく相客にとっては敬遠すべき存在だろう。今どこを走っているのかと、時刻表だの各種資料だのをゴソゴソめくっては、窓ガラスに顔を押し付け、頭からカーテンをかぶって外の夜景を眺める。反対側の景色も見たいから、ひんぱんに寝台を出入りする。かと思えば、一心不乱にメモを書き続け、高い寝台料金を払っているのに、いっこうに寝る気配が無い。(オレもそうだ、とうなづいている人は多いはずだ)。足音などで迷惑をかけることのないように気をつけているつもりだが、相手にすれば、挙動不審の男が一人で乗り込んで来た、と気味悪くて仕方ないだろう。幸い私は、こういう人種と夜行で乗り合わせたことはない。


〔本稿は1998年1月から1999年3月にかけ、H.Kumaさんのホームページ「RAIL & BIKE」
(http://hkuma.com/)
にて、不定期連載として発表したものです〕