山陰本線・駆けある記 A (Sept.25,2004) ■出雲から石見へ、心模様・空模様  5時42分米子に到着。あらためて2両の顔を見る。  1号車先頭の愛称表示は「だいせん」のままだが、2号車の方向幕は「快速」に変わってしまっている。せっかくのこの急行型車両で、「急行」の表示を見たかったな、と思う。大阪駅出発時には、つい自分が乗る先頭車の方にばかり関心が行ってしまった。  この編成はこれから先、どういう使われ方をするのだろう。  こんな早朝に米子で降りてもすることがない。わずか3分の接続で、同じホームの向い側から松江行きが発車するので、ひとまずこれに乗ってしまう。松江ではぜひ行っておきたいところがある。「だいせん」から降りた客も、ほとんど全員がそのまま乗り移った。  松江までのワンマンカーはキハ121系で、投入されてまだ3年という新鋭車両だ。内装にはアルミ素材を多用してメンテナンス性向上や軽量化を図っているようだが、壁面や手すり・パイプ類の表面には木目柄がプリントされ、座席のモケットには「だいせん」の車体に巻かれた帯と同様のワインカラーが使用されていて落ち着きがある。電車を思わせるような加速感もある。  列車は中海に沿って西進するが、湖面はあまり見えない。この区間で最も眺めが良いのは東松江を過ぎたところで、宍道湖から流れ出た幅の狭い大橋川をはさんで島根半島が車窓に最接近する。川というよりは運河か水路のようで、スケールこそ違うが三原や尾道あたりの狭い海峡を思わせる。 --------------------------------------------------------------------------------  30分足らずの軽快な走りに気分を良くして6時14分、松江に到着。一人旅で、あるいは友人と何度か訪れた、想い出の多い街だ。以前来たときはまだ独身で、出雲から倉敷へ抜け、さらに宇高連絡船で四国へ渡って宇和島まで足を伸ばすという、今考えるといったい何を見たいんだと言いたくなるような、脈絡のない旅程だった。できるだけ長く列車に乗って、できるだけ遠くまで。そんな若さがさせた所業だったろう。あれから20年近く経過している。  高架駅に変わった駅舎を一歩出ると、街の様子に以前の面影は無くなっていた。駅前はバスターミナルを兼ねた広場になり、人影のない地下通路を渡って目抜き通りに出ると、飲食店が軒を連ねていたはずの商店街は、壁が押し迫るようなビル街に変わっていた。  確かこの道だったがと、駅前からまっすぐ西に向って歩き出す。かつて友人と、靴にしみ込む湿った雪に足先まで凍らせながら歩いた界隈は、今は再開発工事の真っ最中で、きれいな石畳張りの区間と掘りかえされた区間とが混在している。あの時タイヤチェーンを巻いた路線バスが泥しぶきを上げて走っていた通りには、日曜日の早朝のせいか行き交う車もほとんどない。  やがて通りを10分ほど歩くと、朝日に輝く湖面が果てしなく広がる宍道湖の東岸に行き当たった。街や道路は新しくきれいになり、独身青年だった私は子供3人の所帯持ちになったが、カメラには到底収まりきれないこの雄大な自然だけは何年経っても変わらない。このひと時の再会のために、米子で改札を出ずに直行してきたのである。  ここからは、本州と島根半島とを分かつ大橋川が流れ出ている。それをひとまたぎする宍道湖大橋から西を見れば、出雲市方面へ向う一畑電鉄の始発となる「松江温泉駅」と、これに隣接する「ホテル一畑」が目の前だ。振りかえって東を見れば、幾重にも橋の連なる特長的な街並みが逆光の中に煙っている。 --------------------------------------------------------------------------------  本当に街が変わってしまったのか、自分の記憶があいまいだったのかよく分からないうちに市街をひとまわりして駅に戻る。次の発車は7時28分、快速「アクアライナー」益田行で、朝食がわりのコンビニ弁当をホームでかき込んで慌しく乗車。今度の車両はキハ126系で先に乗ったキハ121系と同属のようだが、座席のひじ掛けなどの内装が一部異なっている。  クラブ活動で試合にでも出かけるのか、女子高校生の一団が二つのボックスに陣取って賑やかにおしゃべりしている。7〜8人のグループの中に、ちょっと化ければアイドルになれそうな垢抜けた子が何人もいて、しばらく目を奪われる。アイドルとまではいかなくても私の個人的な基準としては十分、という子もいるが、主観の問題なのでこれ以上は書かない。  8時15分、出雲市着。いよいよここから初乗り区間で、今回の旅のハイライトがやってきたのだが、2分停車ですぐ発車するので今1つ盛り上がりに欠ける。  子供が子供を産んだような母子連れが乗り込んできて、2歳くらいの女児を見た女子高校生から「キャーかわいい。」と嬌声が上がる。「将来は絶対タレントだね」と達観した感想も聞かれる。気を良くした母親にうながされて子供がポーズを作り、顔の横で小さな手を振る。また嬌声が上がる。  出雲市の隣りは西出雲で、かつての名を「知井宮」といい、1990年に大社線が廃止されるまで分岐駅だったところだ。発車して間もなく山陰本線が左へとカーブを切るあたりが分岐点で、カーブせずにそのまま直進すれば大社駅へと通じていたのだが、現在その分岐点付近には住宅や畑が混在していて面影が無い。かつての線路敷が水田の中をあぜ道のように伸びているのがかすかに見て取れるばかりだ。現在はサイクリングロードになっているのだという。  出雲市から5つ目の田儀で、上りの「スーパーはくと」と交換する。このあたりまでくるとようやく車窓に日本海が開け、山間部ばかりを行く京都〜城崎間あたりとは表情を異にする。時折、五能線の風景を思い出させるような高い断崖の上に突然出たりして、ハッとさせられる。  大田市を過ぎて天候が怪しくなった。黒っぽい石州瓦を屋根一面に葺いた家並みが続き、風景を一層モノトーンの世界に塗り替えている。海は空の色を正直に映して、冬を思わせる鉛色と化しているが、それもまた山陰のイメージにふさわしい。  本来の日程では朝一番に京都を出て、このあたりで夕刻を迎えるはずだった。海辺の一軒宿で日本海の落日を眺めながらひと風呂浴びて・・・、と思い描いていたのだが、今は足早に列車で走り過ぎる他はない。時刻はまだ朝の9時過ぎである。  9時43分、浜田着。漁業の一大拠点だが、私にとってはかつての寝台特急「出雲」の終着駅としてその名になじみがある。初めて来てみると、構内には検修庫や転車台があり、なるほどと思わせる。  天候は依然としてすぐれず、時折雨がパラつく。対向列車待ちのため浜田発は5分延となり、石見津田では終着の益田を目前にして臨時の対向待ちとなった。  向いのホームでは親子連れがベンチから動かない。親戚の見送りか、こちらの列車に向って手を振ったりするが、なかなか発車しないので親子連れも帰れない。  鉄道があり駅がある。そこに行き交う人がいる。遅い発車を悠然と待つこの列車もまた、いつしか鉄道模型のジオラマの世界に溶け込んでしまっていた。