青春18残り福・九頭竜の旅 第一章 (和泉砂川 〜 長浜)  2003年の正月に城崎を訪ねた(別項「青春18・城崎の旅」ご参照)。  タイトルの青春18とはもちろん「青春18きっぷ」のことだが、実は私は、これを使って旅をしたのが今回初めてなのだった。つまりそれだけ、これまではある程度「あそこへ行ってこれをして、そのためにはこれに乗って」、と段取りを立てての旅をしてきたとも言えるし、時間がない中でできるだけ遠方へ行きたい、という思いも働いていた。  それが今回「青春18」を使うことになったのは、もとはといえば小6の息子のせいである。まだ幼かったころから、この息子をダシにして私は小旅行をしてきた。  大阪から新幹線で岡山へ出、マリンライナーで瀬戸大橋を渡って帰路は高松から飛行機で関空へ、というまったくアホらしい大阪湾・播磨灘一周日帰りをしたこともある。  もちろん息子も喜ぶだろうと思ってのことではあったが、肝心の瀬戸大橋を渡っている間息子はお昼寝の真っ最中だったし、高松空港の展望デッキでは、嬉々としてシップ(航空機)を眺める私を尻目に「もうお母さんのところへ帰ろうよ」とベソをかいていた。  そんないささか心もとない「戦友」の息子が、今回にしても正月休みに暇そうにしているから「一緒に雪を見に行くか」と城崎に誘ったのだが、2人で行くなら安く上がるから、とせっかく青春18切符を買ったのに、思春期の不安定さから来るのかここ半年ほどは胃腸が弱く、結局私一人で行くことになった。  日帰り切符5日分でワンセットのうち、2枚は家内と末っ子が大阪ベイサイドの水族館「海遊館」に行って使った。1枚は私が城崎で使った。もう1枚は、また家内が神戸・三宮までのお出かけに使うという。最後に残った1枚は、もちろん私の番である。使用期日の1月20日が迫っており、既に元は取れているとはいえ残すのはもったいない。こうして天下晴れての日帰り旅行再演が決まった。  日帰りで行ける範囲で、しかも行ってみたいところとなると案外と少ないものだ。前回の城崎では、雪を期待したがまったくの晴天でカラ振りだったので、今度こそは雪を見たい。日本海側の冬とはいえ沿岸部は雪が少ないようなので、山間部に狙いをつける。山といえば信州と行きたいところだが日帰りはきついなと思いつつ時刻表の路線図をめくっていると、手ごろな距離でまだ行ったことのない路線として「越美北線」の名が目に止まった。岐阜県側との連絡のかなわなかった盲腸線であり、名前の響きにもどこか引かれるものがあった。 ■第1ランナー 和泉砂川(8時15分発) 〜 大 阪(9時17分着)  関空・紀州路快速 4112M(223系-0) ■第2ランナー 大 阪  (9時30分発) 〜 長 浜(10時59分着) 新快速      3214M(223系-1000)  前回の城崎では朝5時前に出かける強行軍だったが、今回は8時過ぎに家を出る。別に余裕があるわけではない。休日の早起きが苦になってきたせいもあるが、越美北線の融通のきかないダイヤのおかげで、早く出ても仕方がないのだ。  もっとも、掲載した地図で比べると、城崎よりも九頭竜湖の方が断然遠い。乗車する営業キロで比べても恐らくそうだろう。にもかかわらず、出発時間が3時間も遅いのに、九頭竜湖まで行って、同じような時間に帰ってこられるのだ。  これを可能にするのは、現地滞在時間の違いもあるが、やはり琵琶湖東岸の長浜まで直通する新快速の威力だろう。特急並みのスピードで東海道を快走する、JR西日本ご自慢の列車である。  近い将来、長浜からさらに日本海側の敦賀まで運転区間を延長する計画が進行している。途中には交直セクションがあって、これを改修するのか交直両用車両を投入するのか、いずれにしても何かと手間暇がかかるのだが、地元自治体の支援もあってGOサインが出ているようだ。  その新快速は9時30分に大阪を発車。途中彦根では西武カラーの近江鉄道を見、米原ではホームの堂々たる洗面台を見て感動する。  同じボックスに乗り合わせたのは40〜50代のおばさんグループで、皆リュックを携え、トレッキングのようないでたちでキメている。通路を挟んでとなりのボックスとも賑やかに声を掛け合っている。さすがにやかましいので、どこで降りてくれるのかなと期待して会話に耳を挟むと、米原で名古屋方面行きに乗りかえるらしい。が、どうもそれだけではなく、さらに中央線まで乗り入れるようだ。最終の下車駅までは話に出てこなかったが、いずれにしてもこれでは当然日帰りは無理で、青春18の有効期間をめいっぱい使っての行動なのに違いない。こちらも同類の身とはいえ、信州まで鈍行で出かけようとは、私でもしんどくてよほどの目的がなくてはあまり気が乗らない。コストを徹底的に浮かせようという、おばさんならではのバイタリティなのであろう。  熟年パワーに圧倒されつつ長浜着。長浜は、日本史的には豊臣秀吉ゆかりの土地として誰しも一度は習ったはずで、覚えているかどうかはともかくそういう重要な土地柄なのだが、鉄道史においても関西はおろか日本の鉄道にとって重要な意味をもっている。  明治16年5月、「東海道本線」の長浜駅が開業した。当時関ヶ原から長浜までは現在の国道365号線がそのまま旧東海道線として使われ、ここ長浜が東からの終点だった。ここから先、大津までは汽船による連絡、そして大津から京都間は再び鉄路となって、初めて日本人だけの手によって掘られた鉄道トンネルとして有名な逢坂山トンネルによって結ばれていた。  長浜が湖水連絡のターミナルとして選ばれたのは、秀吉以来の経済の中心地として発展したことと無関係ではないだろう。ちなみに、米原経由の新線開通による湖水連絡廃止は明治22年7月とのことである。  とにかくそういう由緒ある長浜で、旧長浜駅舎が当時の間取りと場所のまま、現在の線路にすぐ接した位置に保存されている。現在、隣接して長浜鉄道記念館が設けられているが、このほど日本ナショナルトラストと長浜市によって同じ敷地内に「北陸線電化 記念館(仮称)」を新たに設けることとなり、現在建設の最中である【写真3】。この電化記念館は木造二階建てで、現在屋外に展示されているD51 793や、敦賀駅に保存されているED70 1など、電化完成の前後の時代をささえた動力車も展示するとのことだ。  このように日本史的にも鉄道史的にも由緒有る長浜なので、JR西日本や地元にとっても貴重な観光資源となっており、今やはるばる播州赤穂まで新快速が直通する、ということになっている。秀吉と赤穂浪士のお見合いみたいなものである。 ■第3ランナー 長浜(11時04分発) 〜 越前花堂(12時53分着)  普通 141M(418系) 長浜からは寝台電車583系を改造した418系が登場【写真4】。私は仕事で北陸へもたまに出張するので何度か乗ったことがあるが、これほど使い勝手の悪い車両をローカル輸送に使い続けている例も稀有だろうと思われる。  ドアは車端のみで、しかも幅の狭い折戸式のままなので、多客時には乗降に非常に時間がかかる。列車密度の高い幹線では使い物にならないだろう。  また、改造後もなぜか中段寝台は撤去されておらず死重となっているし【写真5】(ヘタをすると上段までそのまま入っているかも)、その他洗面台のスペースはそのままであったり、ドア周りに奇妙な「1.5人幅」のロング(?)シートがあったりと、見ていて興味はつきないが、総じて車内は雑然としている【写真6】。  ただでさえ窓が狭く寝台間の仕切り板があるというのに、さらに車内吊り広告を設置したので車内はなおのこと薄暗い。窓枠のHゴムはくたびれてひび割れ、ブレーキで飛散した鉄粉がこびりついたのか窓ガラスともども茶色に変色している。写真に撮ろうとしたが、そのあまりにキタナイ質感が表現できないのであきらめたほどである。  改造前のタネ車から起算すれば車歴は優に30年を超えている。ここまで使い倒すからには、JR西日本金沢支社は相当の覚悟があるか、金が無いかのどちらかであろう。  悪口ばかり書いたがいいところもある。なんといっても4人がけボックスシートは弾力がありピッチが広いし、特急用車両だから遮音性がよく、加減速もスムーズなので、目をつぶっていれば乗り心地は特急そのものだ。  車内はまたまた賑わっていて座席はほとんど埋まっており、車端部のロングシートにのみやや空きがある程度。これから福井までの長躯に備えてボックス席をキープするが、気がつくとまた周囲はおばさんの集団であった。  大阪かいわいのおばさんと比べればまだ品があるが、うるさいことには変わりがないので席を移すと、今度の相客は、私と同様リュックを携えた大学生と思われる男性客で、手に長いタマの一眼レフを持って窓の外をきょろきょろ見ているから鉄道マニアだとすぐわかる。私もさっきからきょろきょろしたくてたまらないのだが、年齢が邪魔をするようになった。   あとで車掌が検札に来た時、この大学生が取り出したのはやはり青春18きっぷであった。  既に定刻は過ぎたが、駅のはずれで踏切の障害物を検知する警報機が作動し、解除のために8分遅れる。ベルが鳴り、MGがうなりを上げて11時12分に発車。次駅の虎姫との間で交直セクションを通過するので、車内の照明がしばらく消える。その一緒の暗転を経て、舞台は近畿から北陸へと移って行くのである。 第ニ章 (長 浜 〜 九頭竜湖)  左手に琵琶湖を望み、右手には伊吹連山を見て列車は快走する。私にとって、北陸本線を敦賀へと向かうこの区間は、一種“ミステリアス”とでも表現したくなるような印象につつまれている。沿線に矢継ぎ早やに展開する光景からは、歴史に塗り込められた人々の思い入れが、重く訴えてくるような気がしてならない。  順を追って見て行こう。まず木之本を過ぎると、列車はグイとカーブする。左旋回する私を置き去りにしてまっすぐ伸びていく道路こそ、“柳ヶ瀬越え”の北陸本線旧線跡である。急勾配にトンネルが掘られているために、登り勾配では走る列車を追いかけるようにして煤煙がまとわりついて離れず、多くの機関士が酸欠で倒れた魔の峠越えであったという。  この旧線を見送ると、息をつく間もなく左手に余呉湖が広がる【写真7】。悲劇の戦国武将・柴田勝家と豊臣秀吉との「賤ヶ岳の合戦」の舞台である。車窓から見る賤ヶ岳はすぐ間近にあり、その前景には穏やかで愛らしい余呉湖がたたずむ。この狭い一帯に数千の兵が対峙し、血みどろの合戦を繰り広げたとは、平凡な現代人にはとても想像できないところだ。  お市の方の嘆きを残して余呉トンネルを抜け、高い山肌を巻いて進むと、左手からは堂々たる高架の湖西線が合流してくる。まともな利用客などなさそうなのに構内がやたらと広い、信号所同然の近江塩津を過ぎて国境の深坂トンネルを抜けると新疋田。ここではあの柳ヶ瀬越えの旧線跡が、再び合流しようと怨念を持って右窓から追いかけてくる。一方では、上下線それぞれを別線とし、あまりにも有名なループ線まで敷設して勾配に挑んだ先人たちの執念が左窓に満ち満ちている。  このように日本の近代鉄道史やら戦国史やらが凝縮された区間であり、片時も目を離すことができずに凝視し続けてへとへとになったころ、ようやくのどかな平地が左手にひらけて列車は速度を落とす。11時55分、北国の玄関口、敦賀に到着する【写真8】。  うまい具合にここで10分停車。お昼時とあって、売店には乗客が三々五々集まってくる。カニやサバ、マスなど海の幸を使った駅弁が多く、あれこれと目移りするうちに他のお客がどんどんと買っていく。結局パッケージの鮮やかさにひかれて「鯛鮨」【写真9】に決めたが、酢でしめても弾力を失わない鯛の身がおいしかった。パッケージの能書きによれば、昭和初期からここ敦賀駅の名物であったという。その味と歴史に敬意を表して、製造元「塩荘」のサイトを紹介させていただく(http://www.shioso.co.jp)。  ここから席を移し、フルムーンらしき壮年夫婦が相客になる。この夫婦を含めて車内のあちこちでは一斉に駅弁が開かれ、ローカル列車ではありながら団体観光列車のようなムードになる。これも元特急車両のボックスシートのおかげだろう。  今庄、鯖江など特急の車窓からはなじみのある区間に入るが、ひと駅ごとに停まって行くので印象がまったく違う。それぞれの駅前の風景などもじっくり眺めて、いろいろ見逃していたものがあったなと感心するうちに時間がたち、12時53分越前花堂に着いた【写真10】。福井まで行って越美北線に乗りかえる予定だったが、思い立ってここで降りる。  トイレを借りようといったん改札を出る。無人駅だが駅前は広く、車もたくさん停まっている。正面からずどんと一本伸びる駅前通りのかなたには別の踏切があって、走り過ぎる福井鉄道福武線の車両の陰が見える。  再び改札をくぐって跨線橋から見渡すと、福井方500mほど向こうが照明灯の立ち並んだヤードになっており、そこから北陸本線と越美北線が分岐している。二股になった線路にはさまれた、三角州のような位置に越前花堂の駅がある。あのヤードが南福井駅(貨物駅)に違いない。  宮脇俊三さんの「時刻表2万キロ」の第一章にこの駅のことが出てきて、越美北線の起点は福井でも越前花堂でもなく、この南福井だということが書かれている。だから私が越前花堂から越美北線に乗ってしまうと、「乗りつぶし」的には南福井〜越前花堂間が未乗区間として残ることになるが、別に記録を狙っているわけではないからそれはどうでも良い。それに、どうせ復路では福井まで戻ってから北陸本線に乗り継ぐのだから、“未乗区間”もその時に通ることになる(と、その時はそういうつもりだったのだが)。 ■第4ランナー 越前花堂(13時12分発) 〜 九頭竜湖(14時31分着)  普通 727D(キハ120)  北陸本線と越美北線。2つのホームは30mほど離れているので飛び地のようであり、フェンスで外界と区切られた細い通路で結ばれている。周囲は産業廃棄物置き場や工場に囲まれて、細い越美北線のホームはその中に飲みこまれたようになっている。北から東へとカーブを描く線路もその先は工場群の影へと消えていて、貨物の引込み線のようだ。簡素な片面ホーム【写真11】には、それでも番小屋のような待合室があって、ベンチに敷かれた手縫いの座布団が余計に侘しさをつのらせる。  本線の特急が轟音をたてて走り抜けていく傍らで、このホームは置き忘れられたような感があるが、しかしそれは旅人の勝手な妄想なのかも知れない。定刻にやってきた軽快気動車に足を踏み入れてみれば、サラリーマン、おばさん、そしてローカル線の友・女子高生などなどで席は埋まっており、生活感に満ちた車内はこの鉄道が立派に生きていることを教えてくれる。    北陸に来ての楽しみのひとつは、独特な家々の作りを見ることにある。新興住宅地はともかく、代々その土地に居を構えるような旧家では、必ず家屋の背後に巨木を背負い、風雪から守るような配置になっている【写真12】。これは福井に限らず富山など北陸一帯で見ることができ、またこれを見るとああ北陸に来たな、となつかしさを感じさせる。  車窓にそんな風景を探しながら福井平野を一直線に進み【写真13】、やがて眼前に立ちふさがった山々に突き当たると、いよいよ谷あいを縫うローカル色の強い区間となる。戦国武将の朝倉氏が本拠を置いた一乗谷を過ぎ、足羽川に沿ってさかのぼるに連れて残雪が増えていく。  先頭の乗降口脇にもたれて前を見る。背中にごつごつと当たる感触は、半自動ドアの開閉ボタンのボックスだ。  田畑の中の築堤を直進し、川を渡り、谷あいに突っ込み、林をかすめる。カーブをひとつ曲がるごとに道床を覆う雪が増え、やがて停留所のような駅が現れて、ひと駅ごとにぽつり、ぽつりと降りる。この繰り返しで心地よい緊張と退屈の入り混じった時間が流れ、14時ちょうど、越前大野に着く【写真14】。  大野藩の城下町として歴史のある街で、乗客の半数以上もここで降りる。女子高生もほとんど降りた。一見OLのような可愛い学生が残った。  ひとしきり客の流れが落ち着いたところで入れ違いに助役が車内へ顔を出したが、手にしているのはなんとなつかしい「タブレット」であった【写真15】。「はい、通票サンカク!」「はい三角ゥ。」運転士と声を掛け合ってタブレットを渡す。   なぜここでタブレットが生き残っているのかはわからないが、ひとつ確かなことは、ここ越前大野を過ぎると、あとは終点・九頭竜湖に至るまで列車の交換が皆無だ、ということである。行き違いがないということは、1本の列車しかその区間には入っていないことになる。すなわち、越前大野〜九頭竜湖間21.1kmが、事実上単一の閉塞区間となっているのだ。  改札口に立った助役が、トランシーバで運転士に発車合図を送る。ここから先、九頭竜湖までは1日に5往復しかないので、乗り遅れ客の無いように気を遣うことだろう。  発車してしばらくは盆地の中を行く。後方を振り返るとひときわ目立つ小山があって、その頂に越前大野城がある。  乗客は10人そこそことなったが、これは越美北線にとって少ないと言っていいのかどうか。明らかな鉄道マニアも数人いるからまともな客は片手ほどである。客が少ないから車内吊り広告のスポンサーがつかないのか、広告の代わりに地元の小学生が描いた鉄道の絵が揺れている【写真16】。地元客はボックスシートに収まり、旅行者はロングシートに腰掛けて、気ままに車内を移動しては気に入った風景にカメラを向けている。  いよいよ山中に分け入って、昭和47年まで終点だった勝原に着くが、どうということはない片面ホームで何か拍子抜けがする。ただし目前の新線区間に口を空けるトンネルはポータルのコンクリートもまだ新しく見え、構内の曲線半径も大きくなって、明らかに設計思想が異なっていることがわかる【写真17】。  長い荒島トンネルを抜けると越前下山。ホーム脇の田畑も築堤も一面真っ白で、そこに点々と小動物の足跡がついている。あの足跡をたどって行けば、ウサギかなにかに会えるのかなと思う。都会なら野良犬だろうが。  ふたたびトンネルの連続となって14時31分、終点・九頭竜湖に到着した。ここまで乗った乗客は、大人7人、子供3人。うち私を含む大人4人は旅行者、すなわち鉄道マニアなのであった。 第三章 (九頭竜湖 〜 越前大野)  九頭竜湖駅は昭和47年の開業で30年を経ているが、現在の駅舎【写真18】は「和泉村観光物産展示センター」と一体となっていて、地場産業や観光資源の情報発信拠点の役割を持つ。  またこの一帯は「道の駅 九頭竜」として整備されている。「道の駅」とは、国土交通省の旗振りで各地の幹線道路沿いに設置が進んでいるコミュニティ施設だが、ここ九頭竜湖では鉄道の駅が「道の駅」と仲良く同居している格好だ。そんな経緯から現在のログハウス風にリニューアルされたものではないかと思われるが、真相はわからない。  (参考:国土交通省ホームページから「道の駅」について http://www.mlit.go.jp/road/index.html      同 近畿地方整備局「道の駅」ページ      http://www.kkr.mlit.go.jp/road/michi_no_eki/michieki.htm) ローカルの盲腸線で最果てまでやってきたと思ったが、駅前には国道が整備され、「道の駅」までできている。終点までやってきたのにこんなところに国道があるのかと一瞬思うが、実はそれは間違いで、視点を180度変えて見れば、国道こそが主要な生活インフラなのであり、その傍らに国境越えの夢半ばでついえた鉄道が寄り添っているのに過ぎない。  鉄路はここで途切れているが、道路は越前から美濃へとつながっている。本来ならその道をたどって美濃白鳥へ抜けるJRバスが待っているはずだが、今は冬季なので運休である。がら空きのマイクロバスが客を待っていたが、これはどこかの保養施設への送迎バスらしい。  折り返しの福井行730Dは14時37分に発車する。滞留時間がわずか6分しかないのでかなり慌しいが、これを逃すと次は18時44分発まで待たされて日帰りが不可能になるので、青春18きっぷの最後の1枚を手にした客としてはこれに乗らないわけにはいかない。  駅前をひと渡り見まわし、トイレをすませて車内に戻ると、女性職員が運転士と話をしている【写真19】。事情通のお話によればこの方は谷さんとおっしゃる、第6代の観光駅長さんなのだそうだ。あからさまにカメラを向けるのも最初はためらわれたが、被写体となるのもお役目のうちだろうと割り切って撮らせていただく。先方も慣れたもので気取る様子もなく、こんどは列車に乗る家族を見送りに来た顔見知りらしき男性とおしゃべりしている。  その谷さんの笑顔に見送られて発車。本日の観光駅長としてのお仕事はこれで終わりだろうが、「道の駅」のスタッフとしてのお仕事も兼ねておられるのかもしれない。  車内は地元客とマニア諸兄が半々で7〜8人といったところ。往路で一緒だったマニア氏のほとんども私と同様に折り返したが、一人だけこの列車を見送った猛者がいたのには少々驚いた。今宵はどこでどうするのだろうか。  さっき父親の見送りを受けた母子も乗っていて、閑散とした車内に活気を与えてくれているが【写真20】、どこまで行くにせよパパが車で送ってあげたほうが早いでしょうに、なんでわざわざ鉄道に乗るの、と言いたくなるようなローカル線風景ではある。  15時05分、今日2回目の越前大野で下車する。週末の夜を福井市内で過ごすのだろうか、家族連れや若者が私と入れ違いに乗りこんで発車していく【写真20】。  急カーブの向こうに列車が消えて、私は待合室にひとりになった。室内は九頭竜湖までの延伸を伝える当時の新聞記事や工事の詳細な施工図面、また完工検査の合格と営業運転開始の許可を伝える国鉄部内での電文などが掲示されてちょっとした資料館のようになっており、売店の店先には結構な種類のみやげ物がならぶ。鉄道部も置かれるほどの要所であり、駅前の構え【写真21】もなかなかのものだが、さて展示を見、みやげ物を買っていく人がどれくらいあるのか心配でもある。  次の上り列車は越前大野始発の16時54分発732Dで、日が暮れないうちに城下町をひとまわり探索するにはちょうどよい時間帯だ。 見物の軸になるのは越前大野城である。観光案内板を見てだいたいの方角の見当をつけ、駅前からまっすぐ伸びる通りを歩き出す。  駅前のメインストリートかと思われた道はすぐに微妙なカーブを描き始め、唐突に横丁に突き当たっては変針を余儀なくされたりするが、それでも軒を連ねる商店の中には歴史を感じさせるものが多く、さすがはとうならされることもしばしばであった。その逐一はここに書ききれないので、大野市内のあちこちで拾った風景とともに別掲のスナップ集として参照頂くことにする。    横丁から広い車道に出ると目前に俗称「亀山」と呼ばれる丘が望まれ、その頂に越前大野城が鎮座する【写真22】。さらに案内標識の指す方へ進むと広い駐車場があり、除雪した雪の「捨て場」になっている。ここから隣接する神社の境内を抜けて、「百間坂」という登山道に取り付くが、まだ新しそうな立て札が私を待ち構えていて、片道20分かかるという。登り降りの往復だけで40分を要するとなれば、他にまとまったことができなくなってしまう。城はどこへ行っても城であり、それよりは町並み見物の方に関心があるので、山城の空気だけをみやげにして引き返す。  城下の路地をぶらぶらするのはなかなかいいものだ。「大野藩主 土井利忠公が安政三年(1856年)に開設した洋学館の跡」【写真23】などに接すると、山中の地方都市ながら進取の気風と風格に富む土地柄として、越前大野に尊敬の念を覚える。  武家屋敷などはお決まりの観光名所という感もあるが、入って見ると建築様式も小さな前庭も、質素ながら無骨ではなく、抑えの効いた上品さが感じられる。質実剛健、華美を感じさせないところが山国の大野藩にふさわしいように思えてくる。  一方では何気ない裏通りにも「観光駐車場」と札の出た空き地が用意されていて、観光資源にかけるひたむきさが感じられる。初めて訪れた土地なので、余計に応援したくなるような気分になる。  さて観光も良いが、ここで食事にしておかねばならない。昼食が駅弁だったので小腹が空いたということもあるが、大野を発つと後は大阪に着くまで、まとまった食事の暇はない。まだ16時前だが、食べられる時に食べておかねばならない。  駅の方向へ戻りながら手ごろな店を物色するが、どうも触手が動かない。往々にして地方へ旅に出ると、県庁所在地クラスであってもこれという食事にありつけないことがあって、そんな時にはやはり地元・大阪は食い倒れの街なのだということを再認識する。  ふと目にとまった電柱広告に「福そば」とある。越前は信州そば同様、そばの名産地である。「朝市前」と広告に書かれた所在地情報を頼りに訪ねていくと、駅から程近い横丁の一角に「福そば」本店を見つけることができた【写真24】。  店内は小奇麗で落ち着いた雰囲気だが、まだ夕食時には早いので客の姿はまばらである【写真25】。店頭の蕎麦打ち実演コーナーにも人影はない。  いよいよ旅も最終コーナーとなり、食事のあとは列車に乗って帰途につくのみである。私は打ち上げ気分でビールといかそうめんを注文した【写真26】。なぜ山里の越前大野でわざわざ「函館直送」のいかそうめんを食べねばならぬのかと思ったが、山里だからこそ海の幸に人気があるのかも知れない。とにかく私はイカが好きであるし、肉厚でボリュームたっぷりの身は美味かった。  列車に乗るまでの残り時間と蕎麦をゆでるタイミングとを見計らって、「特製せいろそば」(750円)【写真27】を注文する。1日に30食限定の人気メニューで(その割には午後4時を回ってもまだ残っていたのだが)、平たく言えばシンプルなざる蕎麦だ。  しかし、これはただ者ではなかった。  二代目店主の言葉を借りると、「そばの中心部(1番粉と2番粉のブレンド)だけを使ったそばなのでデンプン質が多く、それをちょっと太めにして打つ事により、ちゃんと噛まなければ飲み込めないほどの独特のもちもち感とそば本来の持つ甘味が味わえる」。  蕎麦一本の長さはせいぜい20cmほどで、口にくわえると普段食べている麺類のようにダラリと垂れ下がったりはせず、しなりがある。噛み締めるともっちりした弾力があるが、それは決して茹で加減が浅くて粉っぽいとか、団子のようにただ粘り気があるということではなく、上質の粉を絶妙の水加減で練り上げたことによる独特の歯ごたえである。ただし「つるつる」とのどを通る、いう麺類の概念は払拭する必要がある。一本ずつ噛み締めて味わうような感覚である。  素材を選び、手間隙かけて仕込まれた蕎麦つゆを口に含むと、一切の雑味がない。ダシもしょうゆもみりんも砂糖も、しゃしゃり出てくるものはなにもない。光の三原色がひとつになって真っ白な光に昇華したかのような、透明な後味だ。ざるそばは甘辛いつゆにとっぷり浸けて食べるもの、という常識はこっぱみじんに打ち砕かれて一瞬呆然とするが、しかしやがて一口ずつ噛み締めるうちに、このつゆでなくては、この蕎麦の持つ本来の甘味が生きてこないのだ、ということに気がつく。すべては蕎麦の味を引き立てるため、計算され尽くしたつゆの味なのだと悟り、参りましたとつぶやくのである。  私は麺類好きなので話が長くなってしまったが、とにかく、このこだわりの塊のような本物の蕎麦がわずか750円というのは信じられない。その心意気の詳細は、同店のホームページでぜひ見て頂きたい。(http://www.fukusoba.co.jp/) 当分、スーパーマーケットで中途半端な生蕎麦などは買うことができなくなるだろう。 第四章 (越前大野 〜 終章)  国道沿いに歩いて越前大野駅に戻る。福井からの729Dが15時48分に到着していて、これが折り返し16時54分の732D福井行きとなるが、その発車まであと10分もない。トイレに行ったりもう一度駅前を見渡したりして名残を惜しんでから乗車。  見送ってくれるのは懐かしい腕木式信号機【写真28】だが、もちろんこれは現役ではない。「単線特殊自動閉塞式完成記念 JR金沢支社最後の腕木式信号機一式 1993.10.1 越前大野鉄道部」との説明板がある。腕木式信号機が無くなって10年目を迎えたということになるが、それでもいまだにタブレットが残っているというのも不思議な気がする。  既に日は落ちて、冬雲のフィルターを通して青白いモノトーンの光が大野盆地を包んでいる。車窓の景色も墨絵のように、残光の中へ徐々に沈んで行こうとしているが、その中でなお際立って見えているのは亀山、そしてその頂に立つ越前大野城である。  発車すると線路は90度近い左カーブを描く。ちょうどコンパスの軸に相当する位置に城があるので、円弧を描きながら走る列車から見るとその位置はほとんど変わることなく、ただターンテーブルのように角度を変えて行くように見える。  大野盆地の西を扼す山地を越えて、夕闇の中を福井へ向って淡々と走るうちに、私の体調には異変が生じてきた。催してきた、のである。発車前には念入りにトイレに行ったのだが、夕方飲んだビールが降りてくるにはちょっと早すぎたようで、今ごろそのツケが回ってきたのだ。しかも急激に、である。  福井到着までには優に30分以上ある。なんとか終点までと思って2駅は我慢したが限界は明らかで、最悪の事態を迎える前に決断せねばならない。この列車を捨てると次は2時間以上来ないので日帰りは断念となるし、コンビニも喫茶店も何もないような駅で降りようものなら、真っ暗な寒空の下で田舎町を2時間以上さまよう羽目になってしまう。  停車中に運転士にちょっと待っていてもらいホームで用を足そうか、等々いろいろな考えが脳裡をめぐったが、結局大事の前の小事にはかまっておられなくなって、ここがどの駅かも確かめずに私はエイヤと降りた。  心理学において「マズローの5段階欲求説」という、そのスジでは有名な古典的学説があって、そのうちもっとも基本的かつ動物的欲求は「生存欲求」である。生命の危険が迫ったときには理性ある人間でもなりふりかまっておられなくなるという訳だが、生理現象を満たしたいのに満たせないという状況も、恐らくこの「生存欲求の危機」に属しているのに違いない。  私以外にひとりふたり降りたような気がしたが、それもどこかへ散ってしまい私はホームに一人になった。一直線に伸びる線路をテールランプがあっけなく逃げて行くのを呆然と見送る。しんと静まった盆地にコトトン、コトトンとジョイントの音がかすかに響くが、それも眠りに落ちるかのように次第に小さくなり、やがて消え去ってしまった【写真29】。  私は線路を渡って、畑に残った雪の上へ思いきり用を足したが、盛大な尿意の割には量が少なかった。このわずか10秒少々の行為のために、いったいどれだけ大きなものを犠牲にしたのかまだよくわからなかったが、とにかく善後策を考えなければならない。  改めて駅名をみる。「市波」。福井まであとわずか25分のところであった。住宅地の裏手に盛り土をしただけで、改札口もない無人駅だが【写真30】、幸い待合室があったので中に入る。座布団の敷かれた長いベンチで横になってみた。ここなら吹きさらしで2時間以上を過ごすことは免れそうだ。  それなりに厚着もしているし、いっそこのまま仮眠でもと思ったが、ふとひらめいて地図帳を開と、うまい具合に、大野と福井を結ぶ国道158号線が駅と接近して並走しているようだ。果たして、駅前を50m足らず歩くとすぐに国道に出た。そこで私は恐ろしいことを考えた。「福井まで歩こう」。  地図をざっとみたところ10キロ少々だから、さっさと歩けば2時間で行くだろう。何もしないままここで次の列車を待つよりはマシである、そう考えて私は人通りのない国道を歩き始めた。用を足した時点で理性を取り戻したと思っていたが、まだどこかでキレていたのである。  10分ほど歩くと家並みも途切れ、国道は山間の登りにかかって寂しくなった。行くしかないだろうと意固地になる私と、本当にいいのかとブレーキをかける私が同居しているので、飲食店のような灯りを見つけるとこれ幸い、とわき道に入る。しかし看板を見ると「歌声喫茶」とあって、どうせ地元の歌好きがたむろしているのだろうから、こういう場所で肩身の狭い思いをしながら過ごすのはおもしろくない。  ここから先は一乗谷へ向けての山越えである。雪がどっさり残っていて歩みが思うように進まないかも知れない。苦労して歩いたあげく、下手をして後続の列車にも遅れを取ってしまっては元も子もない。やはり歩くなど無理だったのだ。私はあえなく徒歩を断念して、すごすごと元来た道を引き返した。今度こそ、正気に返ったのである。  知らない夜道を歩くのは不安なものだが、来たばかりの道を戻るのも張り合いがない。退屈しのぎに歩道に積もった雪を蹴っ飛ばしてみるが、いつまでも雪遊びができるわけでもない。  やるせない気持ちで歩いていると、タクシーが私を追い越して、100mほど向こうで止まった。さては夜道を行く私を上客と見て待ってくれたのかと、すがる思いで追いついてみれば、これは予約客の迎車であった。タクシーで福井へ向う可能性も途絶えた。  突然、夜6時を知らせるミュージックサイレンがあたりに響いた。「夕焼け小焼け」のメロディは「お手手つないで皆帰ろ、カラスと一緒に帰りましょ」と歌うが、大阪へ帰るに帰れず、見知らぬ街を思いがけず一人でさまようことになった私にはせつな過ぎる。  残酷なまでにでき過ぎた舞台装置にあきれていたら、携帯電話が鳴った。    「あのなお父さん、アニメのビデオがうまいこと録画できへんねん。」    中学1年の娘の脳天気な声だった。    「お父さんな、今旅行に来てるねん。帰ったらみてやるから。」  別に私たち親娘は別居しているわけではないが、親父の行動なんかに関心のない娘は、私がこんな山間の町をさまよっていることなど知る由もない。そんな状況でも即時に家族とつながることのできる世の中に戸惑いを覚えるが、家族が自宅で普段通りの日常を過ごすさなかに自分は人知れず福井の夜道を歩いている、そのギャップはおもしろい。私は少し元気が出た。  そうこうしてようやく市波駅に近づいたころ、1台のバスが私とすれ違った。バス・…?! そう、確かに路線バスである!  考えて見れば、大野と福井という県下の主要都市を結ぶ国道なのだから、路線バスが通じていても不思議ではない。駅前まで戻ると、やはりバス停があった【写真31】。なぜ歩き出した時に気がつかなかったのか。  時刻を見ると、きっかり毎時0分と30分に福井駅前行きの便がある。しかも夜8時台まで走っていて、ローカル線など及びもつかない輸送密度である。「国道こそが主要な生活インフラなのであり、その傍らに国境越えの夢半ばでついえた鉄道が寄り添っているのに過ぎない」と、九頭竜湖の駅前でそう悟ったばかりではなかったか!  とにかくこれで福井への到着は大幅に短縮された。私が必死で歩いていたかも知れない道のりを、バスは30分余で快走して福井駅前に到着した。  私は青春18きっぷの使用をここで断念し、切符を買いなおして特急「サンダーバード」でその日のうちに大阪へ戻ったが、福井から大阪までの所要時間は、福井から九頭竜湖までの乗車時間と30分しか変わらなかった。  越美北線南福井駅〜越前花堂駅間は、結局未乗区間のままで終わったのだった。                                        (完)