第一章 《和泉砂川(阪和線)〜京都》  2003年の正月も、寝不足と退屈のうちに三が日が終わろうとしていた。 子供が中学校や小学校高学年となってくると、どこか遊びに行こうかと親が誘っても子供の方が尻が重く、暇だといいながら一日中コタツでテレビゲームに余念が無い。 一家で大きな旅行をするには散財であるし、とかく何をするにも消化不良に終わってしまうのがサラリーマンの連休というものだ。 そんな私のイライラを察してか、家内が「そんなら一人でどこか行ったらええやん、別にかまへんで」と嬉しいことを言ってくれるので、「青春18切符」でふらりと出かけることにする。  ふらりと、とはいっても目的地は決まっている。城崎である。関西以外の方にはなじみが薄いかも知れないが、志賀直哉の私小説「城崎にて」でも知られる古くからの温泉地で、特急なら大阪から3時間足らずで行ける。夏は日本海での海水浴、冬はカニ料理、また一駅隣には奇岩で知られる玄武洞などみどころも多い。  私事ながら、「城崎」という言葉には格別の響きがある。小学校4年の夏休みに家族旅行で連れて行ってもらった、懐かしい場所なのである。昭和46年(1971年)の8月であった。  夏の家族旅行といえば近場の海水浴場でせいぜい1泊、が我が家の相場だったが、その時は2泊3日という豪華版だった。485系ボンネットタイプの「雷鳥」【写真1】で大阪を発ち、湖西線のない時代であったから米原経由で北陸線の敦賀に出て、さらに小浜線へと乗り継ぐ。美浜の民宿で1泊し、翌日は舞鶴線経由で城崎へ至りさらに1泊。特急にもDC急行にも存分に乗れて、電車少年としては夢心地なのだった。その時の映像は、我が家の記録として当時流行の8ミリフィルム(ビデオではなく映画フィルムだ)に文字通り焼き付いて、今も残っている。  とにかく、優等列車を使わずに脚を伸ばせる範囲で、行ってみたいところといえばここしかない。本格的に再訪がかなえば32年ぶりになる。  ただし、目的地は決まっていても、行程が確定しているわけではない。家内には「せっかくやからどこか気の向いたところで泊まるわ」といってあるが、実際泊まるかどうかはまだ決めかねている。一応、往復の行程はウェブ上の「ハイパーダイヤ」で検索した上で、時刻表で煮詰めてあるのだが。  日帰りでも泊まりでも、気ままに使えて融通が利くのが「青春18切符」なのだが、「帰ってくるんかけえへんのか、出かける前にゆうといてな」という家内の方は融通が利かない。  1月4日(土)、午前3時40分に起床。大晦日以来、連日夜更かししたので昨夜はやたらと眠く、おかげで早く床につく事ができたので今日は早起きも苦にならない。  手早く身支度をし、トーストをかじりながらひとしきり時刻表で行程を再検討する。まだ泊まるかどうか迷っていたが、あさって6日(月)からは出勤である。前日くらいはやはり自宅でゆっくりしたいので、日帰りとすることに決めた。昨日の3日(金)に出発していれば日程にゆとりが出て泊まりも可能だったが、雨天のために順延したので仕方がない。「やっぱり今日帰ります」と家内に書置きをして、5時前に家を出る。 ■第1ランナー 和泉砂川(5時16分発)〜 新大阪(6時22分着) B快速2102H(111系) ■第2ランナー 新大阪 (6時27分発)〜 京都 (7時00分着)  快速 702K(221系)  このB快速2102Hは阪和線の上り快速の中で唯一、新大阪へ直通する便利な列車である。復路に新大阪22時46分発の快速紀伊田辺行2995M(脚注)を組み合わせて使えば、ほぼ丸一日を東京で働いて日帰り出張が可能である(疲れるが)。  夜も明けぬホームでは、何の用だか何人もこの列車を待っている【写真2】。そういえば今日あたり、Uターンのピークであるし、週末ながら今日から仕事という人もいるだろう。この列車とて、新大阪に到着すると折り返し6時29分発の快速紀伊田辺行として息つく暇もなく働くが、私は遊びのためにこれから城崎まで行く。  とにかくひたすら眠って6時22分新大阪着。途中駅でほぼ満席になった車内から、皆一斉に新幹線へ乗り継いで行く【写真3】。  京都行きの快速【写真4】も結構混んでいたが、やはり新幹線への帰省乗り継ぎ客がどっと降りて車内は空き、私はボックスを占領した。  ウイスキーの蒸留所で有名な大山崎あたりで夜が白み、朝焼けをバックに名刹・東寺 五重塔のシルエット【写真5】を右手に見て京都着。やたら眠い。早起きの反動が今ごろ出てきて体が重く、私は日帰りにしておいて良かったとすでに弱気になっていた。 注 2995M:往年の夜行鈍行「はやたま」924レのスジをくむ、いわゆる「釣り列車」。 第ニ章 《京都〜園部》  年末年始は各地からの帰省のための臨時列車が多い。時刻表で東海道線の京都近辺を開くと、中でも目を引くのは「ムーンライト」と名を冠した夜行の快速列車群である。  「ムーンライト」といえば、新宿から新潟行きの165系夜行「ムーンライト越後」が思い出される。私はこれに乗って、大阪から矢板(栃木県)への出張途中に、週末を利用して佐渡まで壮大な寄り道をしたことがある。  そして今時のムーンライト(以下「ML」)は勢力を拡大し、京都発着だけでも「ML高知」「ML松山」「ML山陽(下関行)」「ML八重垣(出雲市行)」「ML九州(博多行)」と、5往復・上下10本が運転されている。  我が快速電車の京都着は7時ちょうど、「ML九州」は京都着が7時03分で、山陰本線の列車に乗り継ぐまでのわずかな間に、その姿を見ることができる。臨時の快速列車、どのような編成で運用されているのかぜひ見ておきたい。  京都で下車して今乗ってきた車両の写真を撮り、1番ホームへ移動する。この間既に「九州」も到着しており、スキー列車「シュプール号」などに使われている14系座席車のアコモ改造型が充当されていた。  牽引してきたのはEF65−1133号機。到着してすぐさま連結を解放し、機回り線を経て素早く大阪方へ付け替える【写真6〜7】。向日町(京都総合運転所)へ引き上げるのに違いない。 ■第3ランナー 京都(7時14分発)〜 園部(8時13分着)  普通 227M(111系)  ムーンライトの正体を見届けてから、山陰本線・32番ホームに移動。折りしも亀岡からの普通1222Mがヘッドライトを煌煌と光らせて到着し、これが折り返し園部行きとなる。【写真8】これもまた、早朝から多くの人を吐き出す。進行方向右手に席を取ったと思う間もなく、わずかな折り返し時間ですぐ発車する。ここから亀岡あたりまでは、みどころの連続で気が抜けない。  まず発車して駅前のビル街を過ぎると、右手に公園のような広々とした平地が広がるが、よく見ると我が進路と公園の間に細々とした線路がもう一本現れる。その線路はやがて本線をアンダークロスして車窓左手へと移っていくが、その線路の消える先は、かの「梅小路蒸気機関車館」である。つまりこれは、SLが客車を2両ばかり連結して、体験試乗運転するための線路なのだ。もちろん、扇形車庫前で蒸気を上げる機関車の姿や、構内に移築・保存された旧二条駅舎(1904年建築、京都市指定有形文化財)の堂々たる姿も車窓から垣間見ることができる。  その旧二条駅舎がお役御免となったのは、1996(平成8)年に二条〜花園間が連続立体交差となったことによるものだが、花園を過ぎて地平に降りた途端、梅小路のSLをそのまま走らせたいような、ひなびた「山陰本線」の匂いがしてくる。  映画村で有名な太秦(うずまさ)かいわいの京の町並みは雑然と住宅が建てこみ、ごくありふれた地方都市の風景なのだが、これも千年の都の遺構の上に建っているかと思うと何やら風情が感じられないでもない。  嵯峨嵐山を過ぎると、車内保温のためドアは半自動扱いとなる。嵯峨野の正月はシーズンオフなのか、夏の大混雑がウソのように静まり返った町並みを抜け、いかにも嵯峨野らしい竹林を切り通しでかすめてトンネルに突入する。  いくつか入っては抜けを繰り返し、新しくなった保津峡駅に到着する。眼下に見えるのは保津峡の清楚な流れと旧保津峡駅【写真9・10】で、山間を縫い、谷あいにしがみつくようにして走る単線の路盤を見ると厳粛さで言葉にならない。しかし、今もそのレールの踏面が光っているのは、観光用にトロッコ列車が走り、鉄道が生きているおかげである。  並河駅のすぐ線路際に、新幹線0系の先頭部分とDD51がまるまる屋外保存されているのに出くわし、びっくりしたりするうちに園部着。きょろきょろしたりしみじみしたり驚いたりで、忙しくあっという間の1時間なのであった。 第三章 《園部〜城崎》  山間に抱かれ、桂川の上流に沿って拓かれた園部の街は清清しい朝の光を浴びていた。【写真11】昨日来の雨の名残でホームはしっとりとぬれてはいたが、ぴりっとした空気の冷たさを引きたててくれているようでそれもまた良い。  山陰本線を昼間にたどることはほとんどなく、「園部」の名も夜行列車の通過駅としては知ってはいるが、どんな土地なのかはまったく知らない。30分余の待ち時間を利用して駅前を探索するが、園部とはこんな街で…、と私がくどくど書くよりも、地元の小学生による案内マップ【写真12】が改札前に貼られていたので紹介させていただき、細かい説明は終わりとする。  駅自体はまだ新しい小奇麗な橋上駅で、構内は広く側線も多い。ここ園部を境に京都方、福知山方それぞれへの区間運転の要衝として、その重要性が伺える。  福知山行きの発車10分前に、つい魔が差してトイレに入る。この先城崎までほとんど乗りっぱなしなので今の内に、と思ったのだが、私は普段から腹具合が良いほうではないので案の定手間取り、残り少なくなって行くティッシュペーパーと時間に血の気が引いた。後で城崎の湯に入ってきれいに洗うことにして、発車3分前にようようのことでトイレを出る。  やれ一安心、とホームに降りて、がら空きの車内に陣取るが「この車両は京都行きです。福知山行き後ろ2両は間もなく発車します・・・」と車内放送があり、また大慌てで乗り移る。京都から到着した編成をここで分割し、2両だけがそのまま福知山まで行って、残りの車両は京都へ降り返す、という運用なのだった。  旅にハプニングは付き物とはいえ、一難去ってまた一難、城崎にはるか届かずに計画が崩壊するところだったが、引きつった顔で駆け込む私を待って福知山行きのドアは閉まった。 ■第4ランナー 園部 (8時47分発)〜 福知山(9時52分着)  普通 229M(113系) ■第5ランナー 福知山(9時56分発)〜 城崎 (11時23分着)  普通 427M(113系)  乗り移った福知山行き【写真13】は、先ほどの京都行き編成とは打って変わって2両とも満席で、最後尾の乗務員室前に立つ。ここがすでに、京都ではなく福知山の勢力圏であることを痛感する。駅弁代わりにと駅前のコンビニで弁当を買っておいたのだが、これでは食べることができない。この弁当は結局そのまま道中で食べることなく、深夜に帰宅後の夜食になった。  車内には小春日和の陽光が射し込んで思わず眠気を誘われるが【写真14】、窓外には朝もやが今だにたなびいていて、外気の冷たさを知る。桂川水系から由良川水系への分水嶺にさしかかる日吉のあたりでは、線路際に残雪を見る。ようやく来たぞ、という気になる。  けだるい1時間が過ぎて福知山着。福知山線経由の快速なら大阪から2時間余りで来られるが、私は京都周りで約3時間半をかけて新大阪からここまでやってきた。構内は駅舎高架化の工事が進んでいて活気があるが、だんだんと汽車旅の面影が消えるような気もする。  4分の乗り継ぎで城崎行きが発車。すでに車内は満席でまた立たされる。車両は中間車を先頭車に改造して補強の鉄板を貼りつけたような113系3800番台で【写真15】、どことなく大昔の荷物電車を彷彿させる。  次の和田山も姫路からの播但線との接続駅としてなじみ深いが、由緒ありげなレンガ作りの検収庫【写真16】を今回初めて見つけた。しかも、窓の一部はアルミサッシに交換されるなど今でも現役のようで、これはかなりアブナイ物件だと言えよう。  学生時代から卒業しての数年にかけては、サークルの合宿でハチ高原や神鍋に車で良く通った。国道と山陰本線とが並走しているので、養父・八鹿あたりの沿線風景もなつかしい。  それにしても、真昼間のローカル線だというのによく乗っている。途中、主要駅の豊岡でかなり降りるのではと思ったが、逆にますます混んだ【写真17】。温泉人気のせいか年始の賑わいか、結局よくわからないまま、自宅からおよそ6時間半で終着・城崎に着いた。 第四章 《城崎にて》  速度制限のきついポイントをゴトゴトと渡って着いた城崎の駅は、日本海にそそぐ円山川の河畔にわずかにひらけた平地にある【写真18】。年末年始を温泉で過ごした客が土産物の袋を下げて戻りにかかるかき入れ時で、臨時列車を含めて構内には特急車両【写真19】が肩を並べる。 狭いコンコース【写真20】も人の波でごったがえしているが、この場所に来たのは大学4回生の時以来で、約20年ぶりになる。ハチ高原での夏合宿の空き時間に、ひと目見ておきたいとなつかしい城崎まで足を伸ばして、駅前だけ見てとんぼ帰りしたのだった。  駅舎や駅前広場【写真21】は、狭いが機能的に整備されている。小学生の時の記憶では、駅前がもっと狭かったような気がしたが、駅前に宿のマイクロバスが迎えに来る様子は今も変わらない。   これから城崎での滞在時間は3時間弱である。新幹線の中での3時間は退屈だが、旅先での3時間は長いようで短い。持ち時間を有効に活用するために、ここでの目的は入浴と昼食の2つに絞ってある。  まずなんといっても入浴。ここ城崎には「外湯めぐり」《説明図》といって、7つの名湯を順番に入って回るのが名物になっている。もちろん全部回る時間はないのでひとつに決めなければならない。「庭園風呂」「洞窟風呂」などそれぞれに特色があって目移りするが、駅から手ごろな距離の「地蔵湯」【写真22】に目星をつける。  500円を払って中に入るとロビー【写真23】があり、暖簾をくぐると脱衣場という、街角の銭湯と作りは変わらない。派手な温泉旅館や健康ランドといった趣はなく落ち着ける。ロッカーは、名機ゴハチを気取って58番を選ぶ。  風呂場はまだ改装したてのように新しく、ちょっとしたホテルの大浴場のようだ。さらりとした湯にのんびりとつかると、早朝からの強行軍の疲れも忘れる。何しろ足を伸ばせるのが良い。  小学校中学年くらいの男の子が父親といっしょに湯に使っている。正月早々、城崎なんぞに連れてきてもらえるとは、幸せなお子様である。  20人分ほどある洗い場の一角に座る。鏡に映った自分の姿は中年になり果て、張り出してきた腹にショックを受ける。昨年秋にタバコをやめて以来5キロ体重が増えた。その大部分は腹周りに付いたようだ。  小学4年生の夏から32年。歳をとるはずである。あの時連れてきてくれた親も今ではめっきり老けた。しばし時の流れの無情を噛み締める。  鏡をぼうっと見つめながら、何を考えるでもなくぼんやりと過ごすのは気持ちが良い。いつまでもこうしていたいような気がして、今日はこのまま城崎に泊まろうかとチラと思ったが、現実はそれを許さない。  最後にもう一度温まろうと湯船につかる。壁面間際に小さな石庭がしつらえられていて、そこに直径40センチはあろうかという石柱が、天から落ちてきて突き刺さったように何本も据え付けられている。断面は六角形、紛れも無く玄武岩であった。今回の旅の主目的は、これから向かう玄武洞である。  12時50分。予定していた時間に地蔵湯を出る。城崎温泉の主成分はナトリウムだそうだが、私が書こうとしている拙文は「鉄分」が主体なので、多くはない山陰本線のダイヤにあわせて、写真に収めておかねばならない。  地蔵湯を出ると目の前に橋がある(写真23に見える欄干だ)。その名も「地蔵湯橋」といい、城崎駅前からの繁華街「駅通り」が温泉街へ突き当たったところにある。この橋の上から、川を渡る列車を何本か狙う。  まずお目当ては城崎発12時54分の下り浜坂行173Dだが、時間を過ぎても現れない。13時を回り、手にした「JTB携帯時刻表」の信憑性を疑い始めた頃、12時59分着予定の上り大阪行「はまかぜ88号」【写真24】が約4分遅れで通過。その到着を待っていたのだろう、入れ違いに173Dが現れた。単線なので、これくらいのことは日常茶飯事なのだろう。 第一の目当てであった入湯も果たし、次は昼食とする。ガイドブック等でおなじみの温泉街【写真25】の探索を兼ねて適当なところを探す。ところどころに小奇麗なビルもあるが、軒を連ねる宿にはまだ木造も多く、数十年その姿を変えていないと見うけられるツワモノもある。  民宿の窓ガラスに「お食事カニづくし!これだけついて1泊2食2万円」などと張り紙がしてあったりするが、果たしてそれが安いのかどうか。スーパーで1,980円のカニの冷凍パックに二の足を踏む私には見当がつかない。  温泉街の中ほどまでくると、橋のたもとに「王橋飲泉場」【写真26】というのがある。石作りの祭壇みたいなところから湯気をたてて、かなり熱い温泉が流れ落ちている。備え付けの湯飲み茶碗でひとくちすすってみると、これがかなりしょっぱい。うまいものではないが話しのタネ、原稿のタネである。私が使った後の茶碗は、次に若い女性が使った。  ここからさらに進むと観光ロープウエイと展望台があるが、時間がないので引き返す。先ほどの「地蔵湯」のロビーに、展望台から見た冬景色のパネル【写真27】がかかっていたので転載させていただきご紹介に代えさせていただく。  そうこうするうちに時間もなくなり、適当な店も見つからない。大急ぎで25匹1,000円の甘えびを土産に買って、結局駅前の大衆食堂で「カニラーメン」を注文した。  しばらくして「ハイ、カニ中華ね」といって運ばれてきたのは、まさしくラーメンではなくスープの透き通った中華そばで、細い腕身が1本とほぐし身が少々乗っただけの超シンプルなものだった。シーズンさなかに城崎へ来て、口に入るのはこれだけか、とやや自嘲しながら口に含むと、量は少ないながらもじわりとしみるその甘さに、カニの本場の意地を見たような気がした。 第五章 《玄武洞にて》  つかの間の滞在を終えて城崎駅に戻る。いわゆる「ホーム地層」の部分に「七湯めぐり」の屋号のレリーフを発見。写真に収めたりしながら、しばし城崎との名残を惜しむ。改札口の向こうに見える街の景色を記憶にとどめてから跨線橋へ向かう。 ■第6ランナー 城崎(14時15分発)〜 玄武洞(14時23分着)  普通 174D(キハ47)  玄武洞行きの上り列車【写真28】は往路に下りで到着したのと同じ4番乗り場から。ようやく今回初めてのキハである。久しぶりの乗り心地に妙に落ち着く。  車内でちょっと嬉しいものを2つ見た。ひとつは、床に何気なく置かれたショッピングバッグ。良く見ると「ICHIBATA」と書かれていた。松江の「一畑百貨店」である。宍道湖畔をコトコト揺られた、一畑電鉄の旅のことが思い出されて、さすがは山陰、こんなところで松江の香りに触れることができるとは、と嬉しかった。  もうひとつは、クロスシートの向いに座った女子高生が飛びきり可愛かったのであった。なんでこんな田舎にと信じられないような、東京に出てすぐにタレントをやりなさい、といいたくなるような垢抜けした美人であった。写真を撮らせてもらう時間と勇気がなかったのが残念である。  わずかな間にいろいろと目の保養をさせてもらって、隣駅の玄武洞【写真29】で下車。コトコトと出て行くキハを見送る【写真30】。乗降客は私一人だったが、もし他にいたらむしろ私としても気味が悪かったかも知れない。  玄武洞は円山川の対岸、目と鼻の先に見えていて【写真31】、舟で渡ることになっている。32年前は、20人くらい乗れそうな屋形船だったが、実はそのことで城崎へ来た時から気になっていることがあった。往路でこの玄武洞駅を通る際に車中から目をこらしたが、川を渡る舟も岸につながれた舟も何も見かけなかったのである。正月休みで舟が出ていないのか。それとも、万事車が優勢の時代、まさか渡し舟は姿を消してしまったか。  駅で降りたが舟はない、ということになってはまずいので、城崎駅前からバスで行こうかとも考えたが、駅前の営業所で路線図を見ると、バス停もJRの駅前にあって、やはり川を渡らないと玄武洞には行けないのだった。舟が頼りなのは同じことだから、どうせならとJRでやってきたのであった。  さてどうなっているかと駅前に立つと、「玄武洞行き渡し舟 所要3分 駐車場」と、まだ古びていない看板が出ている。屋形船の気配はないが、道端に置かれた「←券売所」との看板に誘われて川岸へ近づくと、「舟ですか?」と農家のおばさん風から声がかかり、川岸に立つ一軒家に招じ入れられるとそこが券売所であった。この家には良く見ると「喫茶」と看板もかかっているが、まともに営業している風はない。  「今からすぐお送りしますが、お帰りは何時にします?」という。別に決まった発着時刻があるわけではなく、客足に応じて随時運航、というわけだ。  帰りの列車の時刻に合わせて4時の迎えを頼むと、「4時にはここを閉めたいので、3時半でどうですか」という。それなら最初からそう言えよ、とも思うが了承。往復800円を払って商談は成立した。  表へ出ると、待っていたのは屋形舟ではなく、川魚の漁に使うようなただのボートだった。  漁師というよりはやはり農家風のおじさんの舵さばきで、いよいよ対岸へと向う。水面すれすれの視点から眺める川面の風景【写真32】は昔と少しも変わらず、小さい頃の記憶を鮮やかに呼び起こしてくれた。あの時はそんな小さな舟に乗ったのが初めてで、今にもドボンとひっくり返りそうな気がしておっかなびっくりだったものだ。  感慨にふける間もなく対岸が見る見る近づく【写真33】。着岸後船頭のおじさんに聞いたところでは、以前の屋形船は3年前に姿を消し、今の小船に変わったそうだ。ごゆっくり、と言って舟は引き帰して行った【写真34】。  ごゆっくり、とはいわれても1時間しかない。小山の中腹へとだらだら続く石段を登ると、対岸に玄武洞駅と船着場が見えてくる【写真35】。やがてお城の二の丸のような小さな広場があり、さらに石段を少し登るといよいよ玄武洞がその全景を眼前に現す【写真36】。六角形の石盤が連なりあって、「柱状節理」といわれるうず巻きのような紋様を見せている。  なぜこのような奇景が生成されるに至ったかはこちらの説明を見ていただきたい。また、「玄武洞」だけでなく、この一帯には青龍洞、白虎洞など数カ所の奇勝が点在している。  私は、いよいよこの旅のクライマックスを迎えるための作業にとりかかった。あらかじめ、昔の写真プリントをデジカメで接写しておいて、その画像を液晶画面で再生する。これを見ながら、三脚を構える場所を決め、昔と同じ構図で同じ場所に立ってセルフタイマーに収まった【写真37】。  写真には父、姉、そして私の3人が写っているが、それぞれ今の私、長女、長男と同年代になった。一世代がそっくり入れ替わったわけだ。いつの間に、父も私もこんなに歳をとってしまったのか。いずれにしても、自分の中のひとつの歴史が、今完結したのである。  撮影をひとしきり終えて、改めて昔立った場所を眺める。今は柵ができていて、昔ほど崖っぷちの間際まで近寄れなくなっているので、完全に同じ場所に立てるわけではない。また、崩れた岩盤がかなり堆積していて、地表の形なども変化しているので、あの辺だったのかな、と推測するしかない。  この場所での昔の記憶は、それほど確かなわけではない。列車の本数が少ないためか、城崎から玄武洞まではタクシーを奮発したので、川べりにぽつんと立つ玄武洞駅のホームを見てこれに乗りたいと思ったこと、また先述のように舟に乗ってビビったこと、そして玄武洞を見上げて感心したこと、くらいである。あれから大阪までどうやって帰ったのかさえ憶えていない。  それだけに、今再び玄武洞を前にしても、あたりの風景などはまったく記憶になく、こんなところだったのかと新鮮な気持ちさえ覚えるのだが、一方ではやはり、やっと来れた、との感慨が押し寄せる。もう一度行きたいと思いながら、随分と長い時間がかかったものだ。まるで長年叶わなかった墓参をやっと果たしたかのような気持ちさえする。  ここに昔来たんだな、やっとまた来たよ、ここだったんだなあと、言葉にもできないような思いをとりとめなく反芻しながらたたずんでいたが、いつまでも、というわけには行かなかった。迎えの舟は時間ぴったりにやってきた。家族を連れてまた来よう、その気になればすぐにもできることさ。今日の未練を振りきるには、そう思う他になかった。 第六章 《玄武洞 〜 和泉砂川》  さっきの船頭さんに迎えられて対岸へ戻る。行きよりも戻りの方が時間が短く感じられるようだ。  私が戻ると、チケット売りのおばさんは店じまいの仕度の最中。駐車場に白い乗用車がとめられていたが、これは観光客のではなくこのおばさんの通勤用であった。  予定している16時17分の列車まで、30分以上ある。駅の周囲には何もないので、することもなくホームから対岸を眺めていると、店じまいした後のはずなのにさっきの舟がまた客を乗せて玄武洞へ向っている。閉店後の稼ぎは、あの船頭さんのポケットマネーになるのかも知れぬ。  飽きずに対岸を眺めていると、豊岡方から列車が接近してきた。明るいエメラルドグリーン調に塗られた車体【写真38】を見て我に返り、カメラのシャッターを切る。調べてみると、この列車は3時間前に京都を出て、舞鶴線・北近畿タンゴ鉄道を経由して城崎まで行く。 途中、丹後半島の付け根にある久美浜までは特急「タンゴディスカバリー1号」として運転されるが、以降城崎までは快速扱いとなる。城崎に直行する客は最初からこんな回りくどい列車には乗らない。何のためにわざわざ城崎まで運転されるのかよくわからないが、ローカル運転に充当する車両運用の都合だろうか。ちなみに、時刻表を見てもこの編成が当日のうちに折り返すべき適当な列車は見当たらず、それらしいのは城崎発翌朝9時18分の快速豊岡行き(さらに豊岡〜天橋立間は特急「タンゴディスカバリー64号」として運転)である。あの狭い城崎の構内でひと番晩滞留するのだろうか。  以後、思いの他頻繁にやってくる上下列車を撮ったり、駅の表情を撮ったりして結構忙しく過ごす。 ■第7ランナー 玄武洞(16時17分発)〜 豊岡(16時23分着)  普通 178D(キハ47) やがてやってきた列車【写真39】も地元客で結構にぎわっていたが、席を見つけて進行方向を見て座る。線路際ぎりぎりに流れる円山川は、河口に近いので幅は広く流れもゆったりとしている。川原は枯れたような冬の色だが、背景のなだらかな山々の穏やかな緑に心が和む。遠景に見えるやや険しい山は名もわからないが、頂には雪をかぶって車窓のアクセントになっている。  その山々の背後に雪雲らしき黒い影が押し寄せ、近かった川面が徐々に市街地の向こうへと押しやられて、但馬の中核都市・豊岡【写真40】に到着した。構内には除雪車がスタンバイしていてさすが雪国と思わせるが、今日の天候では出番はなさそうだ。  ここ豊岡一帯はコウノトリが名物で、地元に開港した超ローカル空港「但馬空港」も、別名を「但馬コウノトリ空港」と呼ぶ。現在の生息状況は101羽で、そのうち今年生まれたのは18羽だそうだが、そんなことがわかるというのも、ここ豊岡では交番まで「コウノトリ交番」【写真41】だからである。  接続時間を利用して商店街で食事をすませる。大阪でもなじみの中華料理チェーンで、遠くへきたようでもここは関西だなと実感する。あとは深夜の帰宅まで、また乗り詰めとなる。絶妙な接続の連続でスケジュールがうまくできたと喜び、ひたすら乗るのもいいが、要所要所できちんと食事とトイレの時間を入れておくことの大切さを、最近ひしひしと感じている。    ■第8ランナー 豊岡 (17時30分発)〜 和田山 (18時02分着)  普通 444M (113系) ■第9ランナー 和田山(18時24分発)〜 寺前  (19時15分着)  普通 1242D(キハ40) ■第10ランナー 寺前 (19時21分発)〜 姫路  (20時05分着)  普通 5668M(103系) ■第11ランナー 姫路 (20時22分発)〜 大阪  (21時19分着) 新快速 2022M(223系1000番台) ■第12ランナー 大阪 (21時32分発)〜 和泉砂川(22時33分着) 関空・紀州路快速 4197M(223系0番台)  日も傾いて大阪への最終行程に入る。目の前に入線している17時26分発のDC特急「はまかぜ6号」に乗れば終着の大阪には20時12分に着けるが、当然見送る。当方はこれから同じ播但線経由で5本の列車に乗り継いで行くが、それでも大阪着は1時間少々しか変わらないというのは、むしろ速いといえるのではないか。  すっかり日の落ちた但馬路を、この旅でおなじみになった福鉄局カラーの113系で行く。次第に冷え込んできて、国府あたりではホームに風花の舞うのを見るが、車内はほぼ満席の盛況で冷え冷えとしたローカル線の寂しさなどどこにもない。およそ今回の旅ではどの列車も乗車率が良かった。  和田山からは今日最後のキハ【写真42】となる。途中山越えの生野あたりでは線路際に雪をみるが【写真43】、それもすぐ消えて山陽との接続駅・寺前に到着。我が地元の阪和線にも回して欲しいような快適なアコモの103系【写真44】で淡々と姫路へ出れば、あとは新快速【写真45】でわずか1時間で大阪へまっしぐらとなる。岡山県に親戚がいる関係で、子供の頃姫路から姫新線に入るDC急行によく乗ったが、その頃は大阪から姫路まではおよそ1時間半を要していた。  大阪からは関空・紀州路快速【写真46】に乗って我が最寄駅までこれまた一直線で、都心から自宅まで乗り換え無しというのはつくづく便利になったものだと思う。 この実感が、楽ができてやれやれ、といった年齢から来るものなのか、乗り継ぎが便利だからますます旅行がしやすいぞ、という前向きのものであるか。どちらでもいいが楽に越したことはない(やはり前者である)。  大阪駅から自宅へ電話を入れる。「砂川まで迎えに行くわ、雪がすごいから」と家内がいう。大阪駅界隈はまったくどうということはないのだが。  帰宅すると庭が白くなっていた【写真47】。目指した城崎に雪は無く、主のいない間に自宅ではこっそりと降っていたのであった。  《完》