北陸本線旧線をたどって(第2回)(99/11/) |
県道は、比較的なだらかな丘陵の合間を、少しずつ、それでも確実にピークへと登って
いきます。右へ左へと小刻みにターンする様子は、一見きまぐれな様でありながら、やはり
鉄道ならではのリズムを感じさせてくれます。
こういう峠道というものは、身軽な車の馬力にモノをいわせて一気に突っ走ってしまっては
おもしろくありません。蒸気をめいっぱい上げながら、あえぎあえぎ登ったその昔の難儀に
想いを致し、アクセルは控え目に、急な減速も加速もせず、時速40キロ程度の等速度
運動でもってトロトロと走るのがよろしい。自然と「しゅっしゅっぽっぽっ」という言葉が口を
ついて出てきます。
状況に応じて、あー坂がきつくなったな、と思ったら、「ドッドッドッ」と、重いドラフト音に
使い分けてみるのも、いい供養になるでしょう。
幸い、ほとんど交通量のない山間の道のこと、後ろからあおってくるような無粋な後続
車もなく、気持ち良く旧線の「初乗り」を楽しむうちに、深山寺、瀬河内といった沿線の
集落を通り過ぎます。地図を見ると、この先県道は、線路跡と別れて、標高762メート
ルの鉢伏山を越える木ノ芽峠へと通じています。ということは、このルートに鉄道が生き
ていた時代から、なんらかの道路が並行して通じていた、ということも考えられます。
沿線の集落も、鉄道だけが外界とつながる唯一の生命線であったということは考えにくく、
このことからも並行道路の存在が類推できます。
やがて田尻の集落をすぎると、いよいよ本当の廃線跡の上を走ります。木ノ芽峠への道は
右手に別れ、廃線跡は左手、すなわち鉢伏山麓の海側を大きく迂回する方向へと進路を
とります。
それまで、狭いながらも、のどかさを感じさせる山間をたどってきた道は、やがて一段
と勾配の度を増して、寂しい谷間の斜面に取り付く険路となります。
一直線に北陸トンネルが貫いているはずの山懐を右手に見ながら、人家も対向車もない
道を進むうち、突然視界が開けます。と同時に、それまでいかにも鉄道の路盤跡にふさわ
しいリズムを描いていたカーブは、不自然なクランクによって行く手を遮られます。北陸
道の杉津PAに突き当たったのです。わずかな平地上で幅の広い車線を横断させるため
に、北陸道の盛り土には一般道を通すためのトンネルがくり貫かれており、このトンネルを
通るために、道は急角度のクランク状になっているのです。本来の廃線跡は、そっくり広
いPAの下敷きになってしまっていました。かつてこの場所には杉津の駅があり、急カーブ
と急勾配の連続で峠を越えた列車が一息ついた、今回のコースのひとつのハイライトと
なるところです。
駅にしろ、PAにしろ、まとまった施設を作るスペースといえばここしかない、杉津と
はそういう場所です。いいかえれば、その前後の区間があまりにも険しいのです。はるか
に足元には日本海を見下ろすことができ、さらにそのかなたには、敦賀半島の先端である
立石岬のシルエットが、明るさを増してきた初夏の光の中に浮かんでいます。山と海、そ
してまた山が折り重なった光景は、まるで舞台上に幾重にもしつらえられた歌舞伎の書き
割りを見るようです。狭く寂しい山中を心細くたどってきた後だけに、開放感と爽快感も
ひとしお。険しい峠道の途中で一息ついた機関士や乗客の心情も察せられるのでした。
はるかかなたの海に接した集落からこちらに向かって、尾根筋を巻きながら登りつめて
くる一本道が見えます。左右の視界いっぱいに広がる風景の中、むこうからこちらへと、
前後の軸に沿って通うこの道の存在は、雄大な風景の重なりに、さらに立体感を加えてい
ます。
かつての駅名である杉津とは、実はこのふもとの集落の名前であり、何もない山間に開
かれたこの駅に名前をつけるにあたっては、最寄りのこの集落の名前を冠するしか他に
拠るべきものがないのでした。
この一本道は、杉津の集落と駅とを結ぶ唯一の通い路でした。かつての駅名は、クルマ
時代のPAとしてその名を留めるのみですが、土地の人々が黙々とたどったであろう駅へ
の一本道は今も、ドライバーの心身をいやすPAへの物資の補給路として使命を変えな
がら、生き長らえているようです。もうレールはなくなってしまったけれど、鉄道の在りし
日を知っている道が、今でも現役でいてくれることが、せめてものなぐさめに感じられた
のです。
昔、汽車の窓から旅人が眺めたであろう日本海。このひとときの憩いに別れを告げて、
杉津PAから先は、再び廃線跡に戻って山中へと分け入ります。そしてついに、ここまで
私を呼び寄せたものに、出会ったのでした。
(続く)
注)この作品は、1997年1月、Miyuki Igamiさんへのメールに寄せて執筆したものです。