北陸本線旧線をたどって(第1回)(99/11/) DOWNLOAD

「国境の長いトンネルを越えると雪国だった」という一節は、鉄道ファンにとっても馴染み
深いものがあります。かつて新宿から高崎を経て上越線に入り、この有名な小説の舞台と
なった清水トンネルを抜けた時、冒頭の一節と寸分違わぬ、あまりにも鮮やかな舞台の変
わりように、期せずして車内のあちこちから驚きの声が上がったことを思い出します。

こうした太平洋側と日本海側との天候の変化を車窓から楽しむのは、鉄道旅行の大きな
楽しみです。車なら、慌ててチェーンの準備などしなければならないところですが、鉄道
ならシートにのんびりと座って、ビールなど片手に、雪見酒としゃれこんでいれば良いの
ですから。
残念なことに、近畿地方の山並みはすでに壮年期に達していて、地形は侵食が進み、際
立って高く険しい分水嶺もなく、さほど劇的な気象と景観の変化を楽しむことはできませ
んが、それでも、例えば伯備線の陰陽連絡特急「やくも」に乗れば、山陰路の雪に湿って
かじかんだ足先を座席下のヒーターで暖めるうちに、車窓はのどかでうららかな山陽路へ
と変わり、見ているこちらの心までなごんできます。

この季節なら、大阪から特急「雷鳥」に乗って1時間半で、この変化に接することがで
きます。北近江と越前を扼す峠を長い深坂トンネルで越えると、そこはもう北陸の入口。
湖西線の高架から見渡した琵琶湖の水面は、やわらかい冬の陽光につつまれていたのに、
いつの間にか頭上には鉛色の雲が低く垂れこめて、寒々とした湿った空気の中、山間を
縫うように列車は走っています。
やがて平地が開け、鉄路の左手に敦賀の街並みが広がってきます。右手には多くの引込
線が次第に枝別れして、広大な駅の構内を形作り、ここがかつて鉄道の要衝として栄えた
ことを物語っています。

小雨模様の敦賀駅に降り立ち、地下道へと急ぐ人波と別れて、しばらくはホームにたた
ずみ、黒光りする蒸機が行き来した昔のことを偲んでみます。
 ゆるやかにカーブを描くホームの縁に巻かれた敷石は、大正の往時そのままのもの。手
にした鉄道雑誌のページを開いて、当時の写真と見比べてみれば、1枚1枚の敷石から、
背景のかなたの山並みまで、本から抜け出たように目前に今も存在し続けています。何十
年も前の人々が、今の自分と同じこのホームを、この敷石を踏みしめたのだ、そう思うと、
過去と現在の空気が溶け合い、時の隔たりが一瞬消えて、大正時代の空間に身を置いてい
る自分を感じるのです。



今考えれば、あの敦賀という土地はさまざまな形で自分の記憶の中に姿を留めています。
小学生のころ、いまわしい列車火災事故が北陸トンネルの中で起こりました。まだ旧型
客車で編成されていた夜行急行「きたぐに」が北陸トンネル内を走行中、食堂車から出火
し、トンネル内で急停車したために多数の乗客が煙に巻かれて死亡しました。遺体は北陸
トンネルの敦賀側、今庄側それぞれの寺などに安置され、テレビはその模様を延々と流し
ていました。その放送を見たことで、鉄道好きな少年だった私の脳裏に、敦賀、北陸トン
ネル、という言葉が、暗い衝撃とともに焼き付いてしまった様です。
もちろん明るい思い出もあって、夏休みに初めて遠出の旅行に連れて行ってもらったの
が若狭湾での海水浴でした。あこがれの特急電車に乗せてもらい、敦賀で乗り換えて小浜
線で美浜へ、さらに翌日は城崎まで足を伸ばすという、2泊3日の行程でしたが、当時の
私には贅沢きわまりない大旅行で、食堂車で興奮しながら食べたのは忘れもしない「エビ
フライ」、これももったいないほどの贅沢料理に感じられたものでした。
あまりにも単純な理由ではあるけれど、なんで敦賀なのか、という一応の分析にはなる
ようです。


今も生き続けている敦賀の駅。しかしその先には、北陸トンネルの開通によって、間違
いなく過去の空間となった一筋の路があります。
この敦賀〜今庄間の廃線跡について、自分がいつ知ったのかは、もう記憶がありません
。恐らく雑誌で読んでのことだったと思いますが、かなり長い間、心の中に引っ掛かり続
けていました。そして、もう10年以上も前のある日、そこへ行ってみよう、と思い立ち
ました。いかに自分の記憶に残っている場所だとはいっても、あまりにも突然で、それは
まさに、あの場所が自分を呼んでいる、としか表現できない衝動でした。

その日は前夜から、行こうか行くまいか、と考え続けていました。そして結局、夜の明
ける前に車で家を出ました。季節は春、もう5月に入った頃だったように思います。かな
り日も長くなったそんな時期ですから、夜明け前といえば、まだ3時頃の出発です。

名神を走りながら、なんで自分はここを走っているんだろう、という思いがよぎりまし
た。そして、とにかくいかなくてはならないのだ、見届けなくてはならない何かがあるは
ずだ、とも。あとは何も考えずにハンドルを握り、前へ前へとアクセルを踏むだけでした

京都を過ぎ、滋賀県に入るとワイパーも効かないほどの土砂降りになりました。視界が
悪く、もやを透かして先行車のテールランプをひたすら追い続けるうちに、夜と昼との境
目もわからぬまま時間は6時を回って、車は北陸道に入りました。そして何かに呼ばれる
ままに休みなく走り続けて4時間、雨上がりの敦賀インターを下りました。

北陸本線が敦賀駅を出てしばらくは、県道が線路と並行しています。そして北陸道が頭
上をオーバークロスする地点から、なだらかな左カーブで県道は線路と別れて行きます。
この道が、かつての旧線の跡で、北陸出張などの折りにここを通ると、左の窓から、分岐
していくこの道を眺めることができるので、いつもこの地点を通る時は、見逃すまいとし
て落ち着きません。
この分岐点で車を降り、かつて線路がつながっていた様子など想像していると、背の低
い石碑が、線路と道路とにはさまれて建立されているのを見つけました。前方に口をあけ
ている北陸トンネルの、難工事で殉職した人々の名前を記した慰霊碑でした。

いよいよ車を旧線跡に乗り入れます。道幅は2車線分ありますがセンターラインはなく
思いのほかカーブもきついようです。頭上の北陸道の高架とつかず離れず進む県道は、
いよいよ来たぞという期待と、何が待っているのかという畏れの半ばする私を、果てしな
い異次元の過去へと誘うかのようでした。

                                    (続く)

注)この作品は、1997年1月、Miyuki Igamiさんへのメールに寄せて執筆したものです。