第5章  トンネルの内壁に、ほおづえをついて外を眺めている自分のシルエットが映っている。以前にここを通ったのは、いつの事だっただろうか。そんなことをぼんやりと考えるうちに、トンネルを抜けた。  「今庄です。運転停車のため、扉は開きません」と車内放送がある。運転停車、という専門用語を使うのは珍しいように思う。普通ならば、「時間調整のため・・・」などというだろう。自分のようなマニアはいいけれど、一般の乗客はわかるのかな、と思う。下りの「しらさぎ」に追い抜かれる。5分停まって、20時ちょうどに発車。  大阪駅を出発して以来、約2時間続いた一種の興奮状態もここで一段落して、駅弁を頬張りながら、流れていく夜景を眺める。古い街道筋にふさわしい、地味な作りの家が数軒ずつかたまっては、駅界隈の集落を形成していて、どの家の窓からも明りが漏れている。あの明りの下では、家族揃って元日の夜の楽しい膳を囲んでいることだろう。家族の事を、ふと思う。  腹ごしらえが済むと、やはり眠くなる。夕べの大晦日は深夜から初詣に出かけ、就寝は今朝の3時だった。しかし、この先いくつかの楽しみがあるので、まだまだ寝るわけにはいかない。20時56分、加賀温泉に到着。「スーパー雷鳥」に抜かれる。  浴衣に着替えてシーツを敷く。久しぶりの寝台車の感触だ。ここでぐっすり眠れば翌日は快適に行動できるけれど、0時台に上りの「きたぐに」や「日本海2号」とのすれ違いがあり、これだけは見届けておきたい。あと3時間余りある。  21時33分の金沢で親子連れが乗り込み、車内が少し活気付いたが、発車するとおやすみ放送があって車内は減光された。横になって宮脇氏の本を読むが、いつも通勤の車中で読むのとは印象が違う。旅に出たい、とあこがれながら読むのとは違って、自分自身が旅の途中にあるせいか、今ひとつ読書に身が入らない。紙面からふと目を上げると、そこは寝台の中である。ゴトゴトと揺れてもいる。事実の方が小説よりおもしろい、ということだろう。  これから尋ねる東北の地図を開き、五能線の線形などを見るうちにまた列車が停まり、数人が乗り込む気配がした。22時21分、富山。窓の外をみると妻面だけが赤く塗られたDCが隣のホームに停まっていて、行先表示には「猪谷」とある。ここは高山本線への分岐点なのだ。トンネルに挟まれた山間の猪谷駅の様子が思い出される。 「富山」の文字を見ると「ますのすし」を思い出す。ピンク色の身をしたあの名物駅弁が頭にちらついて、条件反射で酒が欲しくなり、とっておきのワンカップを開けた。  列車は新潟県に近づいている。寝台の上にあぐらをかき、窓際のテーブルを背もたれ代わりにして、進行方向に向けて座る。今朝からのこと、出発の時のことなどを思い起こしてみる。  親不知あたりで、初めて日本海を見る。連続するトンネルの合間から、列車の明りに透かして、浜辺へ寄せては返す波のうねりが見えるが、そのむこうは果てしない闇が続いている。寂しさが増幅する。  波打ち際に、北陸自動車道の高架が走り、「天下の険 北陸道4車線化工事」のボードが掛けられている。道路作りに携わる人の心意気が感じられる。  座ったり横になったりをくり返しているうちに、天気が目まぐるしく変わっているのに気がついた。大阪を出た時は曇っていて、敦賀では一雨きたあとのようにホームがしっとりと濡れていた。富山あたりでは晴れていて星が見えたし、新潟県に入ると時折小雨がパラついているようだ。なかなか不安定なのだが、共通しているのは、ここまで来ても全く雪がないことだ。一体どうなっているのかと思う。  直江津〜新津間で、0時台に「きたぐに」「日本海2号」とすれ違い、さらに新津を出てから、2時近くになって、「日本海4号」とのすれ違いを見届けた。「4号」は編成や運用の面で、今乗っている「1号」の分身のような列車だから、これを見ないと「日本海」への義理が果たせない。これから先は、秋田〜東能代間で5時50分頃に普通列車とすれ違うまで、対向する営業列車はない。やれやれという気になって、寝台にもぐりこむ。あとは覚えていない。 〔本稿は1998年1月から1999年3月にかけ、H.Kumaさんのホームページ「RAIL & BIKE」(http://hkuma.com/)にて、不定期連載として発表したものです〕