越前国徘徊録・三国編 第1回 (May.11,2006) ■「電車三国」時代の影を追う 越前徘徊録の第1巻を、この「三国」編から始めることにする。徘徊日は2005年3月5日(土)で、全行程の2日目にあたる。旅程の時系列通りになっていないのは、あくまでも訪れた先々での発見や出来事に焦点を当てて、それぞれ完結した話として描きたかったからで、これがもし「2泊3日の旅をした」ことそのものを主題とするのであれば、出発から帰着までの心象の変化を順に追うのも一つの方法だけれど、今回はあえて趣を変えてみたいと思う。 --------------------------------------------------------------------------------  前夜に福井駅裏のビジネスホテルで1泊したM君と私は、翌朝から越美北線で越前大野を訪れ、午後から東尋坊口跡の探索にかかった。  JR福井駅に接したえちぜん鉄道の福井駅に向かう。2003年の1月に初めて越前大野を訪れた際には、当時の京福電鉄はあいつぐ事故により全線で運行を停止しており、JRのホームから見た京福線の出発信号機は空しく赤色を映したまま変わることはなかった。しかし今日のこの駅は間違いなく生きている。  データイムでもきっちり30分ヘッドで運転されているえちぜん鉄道は、ダイヤもパターン化されていて便利だ。15分ほど待つうちに、元阪神モハ3304のMC2204号が入線してきた。阪神時代の車両銘板がそのまま残っていて、思いがけない出会いにM君ともどもかなり感動する。のどかな福井平野を一直線に北上し、今夜泊まることになっているあわら湯のまちを通り過ごして、50分弱で三国に到着。いよいよ探索をスタートする。  1932年(S7)5月28日、三国芦原電鉄(以下「電鉄線」)の電車三国〜東尋坊口が開業した時の路線図を見ると、当時は芦原〜三国間で国鉄三国線と電鉄線の線路が並行しており、両者の駅も隣接はしていたものの「三国」「電車三国」と分かれていた。  写真が三国駅ビルで(各写真はクリックで拡大します)、ホームは駅舎の右手裏側になるが、それはかつての国鉄線ホームであり、電鉄線の駅舎はこの駅前広場付近に位置していたと思われる。東尋坊口への線路はこの現駅ビルの敷地を貫いて左手奥方向へと伸びていたが、1944年(S19)1月8日に休止された。  さらに9ヶ月後の同年10月11日、国鉄三国線 金津〜三国港9.8kmが休止になると同時に、並走していた京福電気鉄道(当時)の線路から渡り線を設けたような形で(左図の赤線の経路)、国鉄の三国〜三国港間の線路に乗入れが開始され、駅も現在位置の三国駅に統合された。  これは戦時中の不要不急路線として東尋坊口までの路線を休止させたことの見かえりとして、京福に三国港まで乗り入れさせた、という説もあるようだが、ともあれ、この時点で現在のえちぜん鉄道の線形が確立されたことになる。  その乗り入れの場所を写したのが左の写真で、撮影位置は図の青い三角の位置である。あわら方面から直進してきた線路は三国駅に進入する手前で不自然に右へクランクして、もとの国鉄線の路盤へと渡っている。画面右端に少し写っているガードレールは、元の国鉄三国線の路盤跡の道路のもので、この道路は踏み切りのところで突き当たりになっているが、このまま進めば線路と一直線につながることがわかる。また正面奥に見えている白いビルが、上写真の現駅ビルである。 -------------------------------------------------------------------------------- ■ナゾの電車道!?  三国駅前の検証を終え、いよいよ廃線跡を求めて駅前の幹線道路を西へ向かって歩きだす。現在のえちぜん鉄道線と道路の間には30mほどの間隔があり、東尋坊口への線路はそのスペースを西進していたはずだ。現在は敷地のほとんどが商店や民家、工場になっていて入り込みにくいが、幹線道路から右へ折れて北上する道路の踏み切り付近(図のA地点)でさっそく収穫があった。  まず踏切の手前から三国駅方を見れば、現在線と並行して細長い駐車場が。往年の電車三国駅から伸びてきた路線跡らしい。線路際の花壇の土止めに使われているのは枕木だ。60年前の遺物にしては保存状態が良すぎる気もするが、状況証拠としては十分なので、こいつはクロだと決め付けることにする。    同じ位置から振り返って東尋坊口方を見れば、画面左端に怪しいカーブを描いて住宅街の奥へと消えて行くカーブを発見。拡大写真を見ての通り、これもやはり路線跡の様だ。  最初に見た駐車場の位置から比べると現在線との間隔が開いているが、この先で三国港へ向かう線路をオーバークロスする必要があり、ぴったりとくっついていては乗り越しにくいから、あえてこの場所でいったん反転して間隔をとったのだと思えば、この微妙なカーブの理由も納得できる。  カーブの奥はどうなっているかと入っていくと、100m足らずで突き当たりになり民家が建っていた。当時からそのまま線路際に建っていたのではないかと思わせるような、ボロ屋の迫力に圧倒されつつ引き返す。 -------------------------------------------------------------------------------- ■“定番”の橋脚 まずまずの成果に気を良くして、やってきたのはB地点。ここには現在線をクロスオーバーしていた橋脚が残されている。いわゆる「廃線本」にはよく登場する有名な遺構なので、あえてここで紹介するのもお恥ずかしいのだが。  橋脚は、現在線を挟んで2本立っていて、右写真は三国方を見たところである。  ここで宮脇俊三さんの「終着駅へ行ってきます」(新潮文庫・139ページ)から引用する。電車が三国を出て、三国港へ到着しようとするくだりである。  「つぎは終着駅の三国港である。電車は丘陵と家並との間の狭い路盤の上を走り出す。左側の家並がせり上り、その下を切り通しですり抜けると… 」  うかつながら今回の私達の旅では確認し損ねたが、「家並がせり上がった」のはこの橋脚へとつながる築堤の名残を見たのだろうし、「切り通しですり抜けた」のはまさにこの橋脚の地点である。 現在、橋脚の背後には築堤はなく、民家が建てこんでいることから、さらに三国寄りの見えないところに他の橋脚があったのかも知れない。  一方東尋坊口方は、進行方向右手の丘陵に取り付く段丘上になっており、かつての路盤は住宅地になっている。 そして探索はいよいよ後半戦へ。短い区間ながら、ここからが難敵なのだった。